須賀の宮神宮(氷ノ山)【1】トップページ|鳥取県

マピオン地図
鳥取県八頭郡若桜町大字舂米(つくよね)と兵庫県養父市大屋町横行
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須賀の宮神宮(氷ノ山)

 山頂に須賀の宮権現があった。

 この神社は明治3年周辺3か村で下ろすことになった。

 兵庫県養父市鵜縄には、志賀峰神社、
 兵庫県養父市大屋町横行には、四ケ峰神社(しかのみねじんじゃ)
 鳥取県八頭郡若桜(わかさ)町大字舂米(つくよね)では、舂米神社(つくよね)となった。
 但馬側でも須賀の山に由来する神社名が使われている。

須賀の宮神宮(氷ノ山)の拝殿

 準備中

ご祭神

 須佐之男尊
 櫛稲田姫命

須賀の宮神宮(氷ノ山)の本殿

準備中

 氷ノ山(ひょうのせん)と赤倉山

 避難小屋の脇に須賀の宮神宮跡とあり、真新しい石祠(平成6年)があり、次のような説明板がある。

 素戔嗚尊は須賀山(氷ノ山)に降臨され八岐の大蛇を退治し、奇稲田媛を妻とし陵と宮を造った。
 この宮を須賀の山神宮といった。因幡、但馬、美作、播磨四か国の総社で皇室が管理していた。
 頂上と中腹に五十八ヶ所の宮跡と礎石が現存している。
 茲に須賀山の古代遺跡を後世に伝えるため、之を建てる。
 (須賀ルーツを探る会)。

 古くは須賀の山と呼ばれ、主に因幡側の人の信仰の山であったようだ。
 因幡側では北隣の赤倉山氷の山(ひょうのせん)と呼んでいたが、但馬側の人は須賀の山標の山(ひょうのせん)豹の山(ひょうのせん)氷の山(ひょうのせん)などとと呼んでいた。
 大正初期陸軍省測測量部が地形図を作成するとき、但馬側の呼び名「氷の山」と記入した。因幡側では不満があっても軍にもの申すことができなかった。
 第二次大戦後、因幡側から異議がでて昭和51年「須賀の山」と訂正されたが、やがて再びこれまで定着していた氷ノ山(ひょうのせん)に戻された。

 兵庫県の山 より引用です

【氷ノ山 ひょうのせん】(抜粋)〜「兵庫県大百科事典」(神戸新聞出版センター)

 明治39年(1906)発行の高頭式編『日本山嶽誌』によると最高峰は菅[すが]ノ山[せん](須賀ノ山)に、氷ノ山越の峠の北のピーク赤倉の頭[かしら](1,332m)が氷ノ山となっている。
 これは鳥取県側の呼び名で兵庫県側では「ひょうのやま」(豹[ひょう]の山[やま]・標[ひょう]の山[やま])と呼称していた。その昔、山頂に須賀の宮権現がまつられ、出雲文化の影響で一歩進んでいた因幡の住人の信仰が篤かった。今も山頂に群生するスズタケの陰に礎石が残っているという。
 山頂直下にみたらしの池(みそぎ場)や灯籠岩の遺跡がある。近代スキー登山の対象になってからは、その当時の大正初年発行の陸軍陸地測量部の地形図と兵庫側の呼び名にしたがって、山の仲間は「ひょうのやま」、または「ひょうのせん」と呼び、ついにそれが定着するようになった。
 ところが第2次大戦後になり鳥取県側から苦情が出たため、新しい地図では須賀ノ山に訂正されることになったが、一般的に定着している「ひょうのやま」、または「ひょうのせん」おされて、国土地理院においては、54年度から発行の地図で最高峰を「氷ノ山」に、1,332mのやまは「赤倉山」と訂正することになった。またNHKではその呼称を「ひょうのせん」に統一した。

多田 繁次(ただしげじ)

 電脳徘徊 より引用

赤倉山(氷ノ山)と須賀の山

氷ノ山と須賀の山の地図

 氷ノ山 > 氷ノ山 地図 より引用