記録に残しておきたいメモ書き
【氷ノ山 ひょうのせん】(抜粋)〜「兵庫県大百科事典」(神戸新聞出版センター)
明治39年(1906)発行の高頭式編『日本山嶽誌』によると最高峰は菅[すが]ノ山[せん](須賀ノ山)に、氷ノ山越の峠の北のピーク赤倉の頭[かしら](1,332m)が氷ノ山となっている。
これは鳥取県側の呼び名で兵庫県側では「ひょうのやま」(豹[ひょう]の山[やま]・標[ひょう]の山[やま])と呼称していた。その昔、山頂に須賀の宮権現がまつられ、出雲文化の影響で一歩進んでいた因幡の住人の信仰が篤かった。今も山頂に群生するスズタケの陰に礎石が残っているという。
山頂直下にみたらしの池(みそぎ場)や灯籠岩の遺跡がある。近代スキー登山の対象になってからは、その当時の大正初年発行の陸軍陸地測量部の地形図と兵庫側の呼び名にしたがって、山の仲間は「ひょうのやま」、または「ひょうのせん」と呼び、ついにそれが定着するようになった。
ところが第2次大戦後になり鳥取県側から苦情が出たため、新しい地図では須賀ノ山に訂正されることになったが、一般的に定着している「ひょうのやま」、または「ひょうのせん」おされて、国土地理院においては、54年度から発行の地図で最高峰を「氷ノ山」に、1,332mのやまは「赤倉山」と訂正することになった。またNHKではその呼称を「ひょうのせん」に統一した。
多田 繁次(ただしげじ)
これは鳥取県側の呼び名で兵庫県側では「ひょうのやま」(豹[ひょう]の山[やま]・標[ひょう]の山[やま])と呼称していた。その昔、山頂に須賀の宮権現がまつられ、出雲文化の影響で一歩進んでいた因幡の住人の信仰が篤かった。今も山頂に群生するスズタケの陰に礎石が残っているという。
山頂直下にみたらしの池(みそぎ場)や灯籠岩の遺跡がある。近代スキー登山の対象になってからは、その当時の大正初年発行の陸軍陸地測量部の地形図と兵庫側の呼び名にしたがって、山の仲間は「ひょうのやま」、または「ひょうのせん」と呼び、ついにそれが定着するようになった。
ところが第2次大戦後になり鳥取県側から苦情が出たため、新しい地図では須賀ノ山に訂正されることになったが、一般的に定着している「ひょうのやま」、または「ひょうのせん」おされて、国土地理院においては、54年度から発行の地図で最高峰を「氷ノ山」に、1,332mのやまは「赤倉山」と訂正することになった。またNHKではその呼称を「ひょうのせん」に統一した。
多田 繁次(ただしげじ)
電脳徘徊 より引用
細矛千足(山陰地方)のご巡狩は、道奥伝授の一環・・
準備中
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