日牟禮八幡宮(ひむれはちまん)【5】記録に残しておきたいメモ書き|滋賀県

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滋賀県近江八幡市宮内町257( マピオンによる広域地図
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記録に残しておきたいメモ書き

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

以下フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

 伝承によれば、131年、成務天皇が高穴穂の宮に即位の時、武内宿禰に命じてこの地に大嶋大神を祀ったのが草創とされている。
(※)この大嶋大神を祀ったのが、現在の大嶋神社奥津嶋神社なのか、境内社の大嶋神社なのかは定かではない。
 275年、応神天皇が奥津嶋神社から還幸の時、社の近辺に御座所が設けられ休憩した。
 その後、その仮屋跡に日輪の形を2つ見るという不思議な現象があり、祠を建て、日群之社八幡宮と名付けられたという。
 691年、藤原不比等が参拝し、詠んだ和歌に因んで比牟禮社と改められたと云われる。

 「天降りの 神の誕生の八幡かも ひむれの杜に なびく白雲」

 991年(正暦2年)、一条天皇の勅願により、八幡山(法華峰)上に社を建立し、宇佐八幡宮を勧請して、上の八幡宮を祀った。
 さらに、1005年(寛弘2年)、遥拝社を山麓に建立し、下の社と名付ける(現在の社殿は下の社に相当)。

中世以降

 1590年(天正18年)、豊臣秀次が八幡山城築城のため、上の八幡宮を下の社に合祀した。
 替地として日杉山に祀る予定であったが、1595年(文禄4年)秀次が自害に及び、日杉山に社殿は建立されず、現在のように一社の姿となった。
 秀次自害により八幡城は廃城となったが、城下町は近江商人の町として発展し、当社は守護神として崇敬を集めた。
 1600年(慶長5年)9月18日、徳川家康が関ヶ原の戦い後、武運長久の祈願を込めて参詣し、御供領五十万石の地を寄附した。後に、家光や家綱も御朱印を残している。
 1876年(明治9年)に郷社、1916年(大正5年)には県社に列せられる。
 1966年(昭和41年)、神社本庁別表神社に加列し、神社名を日牟禮八幡宮と改称する。