早吸日女神社(はやすいひめ)【1】トップページ|大分県

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大分県大分市大字佐賀関3329番地( いつもNAVIによる広域地図
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珍彦が神武天皇一行を待っていた速吸門(はやすいど)とは、伊邪那岐尊が・・

参拝履歴

訪問日:未訪問

珍彦が神武天皇一行を待っていた速吸門(はやすいど)とは、伊邪那岐尊が・・

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 神代の昔、伊邪那伎神が潮中に潜り、汚穢を灌ぎ、高門巌に昇って、田刈穂に宮殿を造ったのが当社の起源。
「田刈穂」とは一名「高風」といい、現在の古宮の地。
 当社の西1Kmほどの所にあり、元の鎮座地であるという。

 速吸門(はやすいど)とは、伊邪那岐尊が黄泉国から帰ってきて禊払いをした聖地。

 神武即位前7年(西暦紀元前667年)、神武天皇ご東遷の途次、速吸の瀬戸に於いて、長い間大蛸により守護されていた伊邪那岐尊の神剣を海女の黒砂、真砂が海底より取り上げて天皇に献上された。
 その神剣を神体として、古宮の地に天皇御自ら祓戸の神を奉斎し、建国の大請願をたてられたのが創祀である。

早吸日女神社(はやすいひめ)の本殿

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ご祭神

八十枉津日神(やそまがつひのかみ)
大直日神(おほなほひのかみ)
底筒男神(そこつつのをののかみ)
中筒男神(なかつつのをののかみ)
表筒男神(うはつつのをののかみ)
大地海原諸神(おほとこうなばらもろのかみ)

神武天皇一行が、速吸門(はやすいど)を通過するときに待っていた人物は・・

『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十九〔武仁大和討ちの紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P225-242 )より

  時に武仁尊(たけひと)  
吾平姫(あひらひめ) 娶(めと)り生む御子(みこ)  
手研耳尊(たぎしみみ) 君歳(きみとし)四十五(よそゐ)  
物語り 「昔(むかし)の御祖(みおや)  
高皇産霊尊(たかむすび) 日高見(ひだかみ)生(う)みて  
四(よ)マス万穂(よろ) 過(す)ぎて天日(あまひ)の  
大御神(ををんかみ) 天成(あめな)る道に 天照神
民(たみ)お治(た)す 御子(みこ)の忍仁尊(おしひと) 忍穂耳尊
譲(ゆづ)り受(う)く 御孫(みまご)清仁尊(きよひと) 瓊々杵尊
また受(う)けて 別雷(わけいかつち)の  
天君(あまきみ)と 天の磐座(いわくら)  
押し開き 稜威(いづ)の道別(ちわき)に  
治(をさ)まりて 御祖(みおや)に仕(つか)ふ  
道(みち)開(あ)きて 光(ひかり)重(かさ)ぬる  
年(とし)の数(かず) 百七十九万(ももなそこよろ) 179万2,470年
二千四百(ふちよもも) 七十穂(なそほ)経るまで  
遠(お)ち近(こ)ちも 潤(うるほ)ふ国(くに)の  
君(きみ)ありて 村も乱れず  
天(あめ)の道 世に流行(はや)る歌  
  乗り下せ秀真路(ほつまぢ) 「乗り下せ」と「宣り下せ」を掛けている
  弘(ひろ)む天(あま)も岩船」  
塩土(しほつち)の 翁(をきな)勧(すす)めて  
「饒速日命(にぎはやひ)が 如何(いかん)ぞ行(ゆ)きて  
平(む)けざらん」 諸臣(もろ)御子(みこ)もげに  
「灼然(いやちこ)」と 「先(さき)に璽(をしで)の 長髄彦が『世嗣の文』を盗み写した制裁
答(こた)えつら 君(きみ)速(すみや)かに  
行幸(みゆき)なせ」 天鈴(あすず)キミヱの 「キミヱ」は51年目の年
十月(かんな)三日(みか) 天御子(あみこ)親(みづか)ら 天鈴51年10月3日
諸(もろ)率(ひ)きて 御船(みふね)の至る  
速吸門(はやすいど) 寄る海人(あま)小船(おぶね)  
天日別命(あひわけ)が 問えば「国神(くにかみ)  
珍彦(うつひこ)ぞ 海(わだ)の釣(つり)にて  
聞(き)く御船(みふね) 迎(むか)ふは御船(みふね)」  
「導(みちび)くか」 「あひ」と答えて  
勅(みことのり) 椎(しい)棹(さほ)の末(すえ)  
持(も)たしめて 船(ふね)に引き入れ  
名(な)お賜(たま)ふ 椎根津彦命(しゐねつひこ)の  
曳(ひ)く船(ふね)の 宇佐(うさ)に至(いた)れば  
宇佐津彦命(うさつひこ) 一柱騰宮(ひとあがりや)に 宇佐津彦命は伊吹戸主命の子。
一柱騰宮(ひとあがりや)は諸説ある。
拝田説・・『宇佐雑徴』(敷田年治)、『豊前志』(渡辺重春)
妻垣説・・『日本書紀』『博物誌』
宇佐説・・『八幡宮本紀』(貝原益軒)etc
御饗(みあえ)なす 膳(かしわで)に寄る  
宇佐子姫(うさこひめ) 天種子命(たねこ)が妻(つま)と  
父(ちち)に問(と)ひ 筑紫(つくし)のヲシ門(と) 『記』に「竺紫岡田宮」、
『紀』に「筑紫国の岡水門(おかのみなと)に至り給ふ」
とみえる。
安芸(あき)の国 チノ宮に越す 『記』に「阿岐国の多祁理宮(たけりのみや) 」、
『紀』に「安芸国に至りまして、埃宮(えのみや)に居します」
とみえる。
 本書の「チノ宮」ももとより、いずれも宮の名称が異なるという問題もあるが、従来の学説では、『記紀』にみえる宮は名称の相違とは関係なく広島県安芸郡府中町に比定されている。
三月(やよひ)には 吉備(きび)高島宮(たかしま)に 岡山県児島郡甲浦村に大字宮ノ浦字高島(現在、岡山市高島)がある。
中国(なかくに)の 政(まつり)治(をさ)めて  
三年(みとせ)坐(ま)す 内(うち)に整(ととの)ひ  
御船(みふね)行く    

早吸日女神社(はやすいひめ)の摂社

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早吸日女神社(はやすいひめ)の地図

早吸日女神社(はやすいひめ)の地図