文献に掲載されている由緒書き
『全国神社名鑑』(史学センター)に掲載されている由緒書き
準備中
鴨建祗命〜『秀真伝』(八幡書店)下巻の巻末資料の系図から
鴨建祗命(かもたけずみのみこと)と建角身命(たけつのみのみこと)が同一人物だとすると、建角身命(たけつのみのみこと)が八咫烏だという説は成立しない。
鴨建祗命(かもたけずみのみこと)は豊玉姫の弟で、磯依姫との間に河合の館(下賀茂の賀茂御祖神社に隣接する河合神社)で玉依姫(神武天皇の母)を育てられてから神上がられている。
神武天皇が東征するときは存命されていない。
紀元前657年(即位後4年)天鈴61年2月、八咫烏の孫が、葛野主(かどのぬし)に任命されているので、「山城」と「葛野」の地理的近さからくる混同だろう。
肝心の八咫烏本人は、神武天皇即位後、八咫烏神社周辺に残られたので、八咫烏神社に掲示されている由緒書のような説明になるのではないか?
「八咫烏伝承は、もともと宇陀の在地氏族に伝承されていたと思われます」
そうであるならば、
「八咫烏神社の南方にある高塚古墳は八咫鳥の陵墓であるという伝承」
に信憑性を感じる。
鴨建祗命(かもたけずみのみこと)は豊玉姫の弟で、磯依姫との間に河合の館(下賀茂の賀茂御祖神社に隣接する河合神社)で玉依姫(神武天皇の母)を育てられてから神上がられている。
神武天皇が東征するときは存命されていない。
紀元前657年(即位後4年)天鈴61年2月、八咫烏の孫が、葛野主(かどのぬし)に任命されているので、「山城」と「葛野」の地理的近さからくる混同だろう。
肝心の八咫烏本人は、神武天皇即位後、八咫烏神社周辺に残られたので、八咫烏神社に掲示されている由緒書のような説明になるのではないか?
「八咫烏伝承は、もともと宇陀の在地氏族に伝承されていたと思われます」
そうであるならば、
「八咫烏神社の南方にある高塚古墳は八咫鳥の陵墓であるという伝承」
に信憑性を感じる。
三島溝咋命〜『秀真伝』(八幡書店)下巻の巻末資料の系図から
三島溝咋命(みしまみぞくいのみこと)が八咫烏なのか?
瓊々杵尊には3人の子があった。
〔1〕火明尊(ハラ宮で関東以北を治める)
〔2〕火進尊(海幸彦)
〔3〕彦火々出見尊(山幸彦)
瓊々杵尊の長男・火明尊(ほあかりのみこと)は玉根姫(子守神の二女)との間に、国照宮と武照宮の2人の子をもうけた。
瓊々杵尊の兄・奇玉火之明尊(くしたまほのあかりのみこと)に子がいなかったので、瓊々杵尊の長男・火明尊(ほあかりのみこと)の長男である国照宮が養子になることになった(饒速日尊)。
三島溝咋命(みしまみぞくいのみこと)はハラ宮を治める要職にあり、瓊々杵尊の長男・火明尊(ほあかりのみこと)の典侍として活玉姫(いくたまひめ)、内侍として活依姫(いくよりひめ)を宮中に上げている。
国照宮(饒速日尊)が奇玉火之明尊の養子として大和に行く段になって、三島溝咋命(みしまみぞくいのみこと)が後見として大和に行ったとも考えられる。
しかし、国照宮(饒速日尊)の後見役の人物が八咫烏だったとすると、戦を交えることなく、直接、国照宮(饒速日尊)を説得できるはずである。
ハラ宮から国照宮(饒速日尊)に同行した一行の人物が八咫烏と捕らえるのも無理があるかもしれない。
瓊々杵尊には3人の子があった。
〔1〕火明尊(ハラ宮で関東以北を治める)
〔2〕火進尊(海幸彦)
〔3〕彦火々出見尊(山幸彦)
瓊々杵尊の長男・火明尊(ほあかりのみこと)は玉根姫(子守神の二女)との間に、国照宮と武照宮の2人の子をもうけた。
瓊々杵尊の兄・奇玉火之明尊(くしたまほのあかりのみこと)に子がいなかったので、瓊々杵尊の長男・火明尊(ほあかりのみこと)の長男である国照宮が養子になることになった(饒速日尊)。
三島溝咋命(みしまみぞくいのみこと)はハラ宮を治める要職にあり、瓊々杵尊の長男・火明尊(ほあかりのみこと)の典侍として活玉姫(いくたまひめ)、内侍として活依姫(いくよりひめ)を宮中に上げている。
国照宮(饒速日尊)が奇玉火之明尊の養子として大和に行く段になって、三島溝咋命(みしまみぞくいのみこと)が後見として大和に行ったとも考えられる。
しかし、国照宮(饒速日尊)の後見役の人物が八咫烏だったとすると、戦を交えることなく、直接、国照宮(饒速日尊)を説得できるはずである。
ハラ宮から国照宮(饒速日尊)に同行した一行の人物が八咫烏と捕らえるのも無理があるかもしれない。
八咫烏命は誰なのか?
和歌山県那智勝浦町の八咫烏神社で紹介している伊藤邦太郎氏の文書も参考にすると、事代主(神代の官職名)の部下の誰かが八咫烏なのかもしれない。
この人物は、和歌山県那智勝浦町の八咫烏神社で生まれ、奈良県宇陀市の八咫烏神社近辺で亡くなり、八咫烏神社南側にある高塚古墳に祀られたのかもしれない。
出自に関しては「葛野」にかすかなる記録が残っている気がする。
この人物は、和歌山県那智勝浦町の八咫烏神社で生まれ、奈良県宇陀市の八咫烏神社近辺で亡くなり、八咫烏神社南側にある高塚古墳に祀られたのかもしれない。
出自に関しては「葛野」にかすかなる記録が残っている気がする。
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