文献に掲載されている由緒書き
『全国神社名鑑』(史学センター)に掲載されている由緒書き
記載ありません。
生玉神社(いくたま)は、神武天皇を祀り生国魂神・咲国魂神とする
下記は、第225回活動記録 神武天皇陵の謎からの引用です
菊池山哉(さんさい:大正-昭和の郷土史家)はその著書のなかで、洞村の区長宅で多くの老人たちから聞いた洞村内部の話を次のように伝えている。-
洞村は神武天皇陵拡張のため平野へ移転し、今は街路整然といしている。もとは畝傍山の東北の尾の上であり、『古事記』『日本書紀』は神武天皇陵と伝えているところと一致する。
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神社を生玉神社(いくたま)という。祭神は神武天皇とのことだが確かではない。
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この部落は、神武天皇陵の守戸であると伝承している。神武天皇陵は、畝傍山の東北の尾の上の平らなところで、丸山宮址のところとも、生玉神社(いくたま)のところとも伝えられている。
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旧家は、御陵と伝えられているところの下で、『ひぢり垣内(かいと)』ととなえ井上、辻本、楠原、吉岡などが本家。ともに日向からおともしてきた直系の家来で、そのため墓守になったと伝えている。
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丸山宮址と呼んでいるが、宮があったとは聞いていない。径25間の平地で、円形をなし、その中心が、径3間ぐらい、こんもりと高く、昔は松の木が茂っており、その上を通ると音がして、他のところとは変わっていた。
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その境内に、7つの白橿(しろかしわ)の大木があった。最後のものは周囲すでに皮ばかりで、そのなかが、6尺からの空洞であった。皮ばかりでも『しめ縄』がかけられていた。
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白橿村(しろかしわむら)というのは、御陵に白檮の大木が7本もあったからで、神代からのものと伝えられていた。
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明治の初年、神武天皇陵認定のときに、この地の人が賤民であったばかりに、神武戸と称する部落の人の作り田を、強制没収でとりあげてしまった。それが、今の御陵となっている地である。神武戸とは、神武天皇陵の戸、入口の意味である。
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今の御陵は真実の御陵でないといったら、全村千人のものが、放りだされて路頭に迷うかもしれないので、頭(かしら)がかたく箝口令をしいていて、絶対に口外しなかった。今の御陵は真実の御陵と方向があべこべである。
ここまでが、第225回活動記録 神武天皇陵の謎からの引用です
さらに以下が政治と学問のあいだの絡みについての、第226回活動記録 神武天皇陵の謎その2からの引用です
■政治と学問のあいだ谷森善臣は、同じ宇都宮藩顧問団の津久井清影、北浦定政の丸山説を知っていたであろう。また、谷森善臣は神武天皇陵の問題以外は穏当な判断をしている。にもかかわらず神武天皇陵についてはそうとう強引な判断をしたように見える。なぜだろう。
このころの事情について、国立歴史民族博物館の春成秀爾氏は次のように述べる。
1863年(文久3年)2月に神武陵に決定されたのは、むしろ本命とみられていた丸山ではなく、ミサンザイであった。
その理由こそ時の政治情勢下における洞村との関係にほかならなかった。洞村は1854年当時、120戸からなる被差別部落であった。もともと『神武陵』復興の動き自体尊皇攘夷運動の激化する過程で大きくなって行ったもので、文久の修築にかかる頃は、皇女和宮の降嫁に象徴されるように公武合体論が盛んな時であって幕府は朝廷との友好関係を強化することに自らの延命策を見出し、天皇陵の指定と修復の事業を本気で考慮していたのであった。
幕府は、孝明天皇が大和に行幸する計画を知るや、天皇陵の決定・修復事業を実施する決意を固め、戸田越前守から出された建白書をうけいれ、行幸に先立って山陵奉行を急遽設置し、宇都宮藩家老戸田忠至を任命し、谷森善臣をその相談役にしたのであった。ところが、そのわずか1ヶ月のちに、攘夷断行の報告のために孝明天皇の『神武陵』参拝が決定されたために、幕府はいっそう追いつめられることになったのである。
「『神武陵』はいつつくられたか」(『考古学研究』84、1975年)
つまり、本命と見られていた丸山説を採らずに、ミサンザイに決定した裏には次のような事情があったのである。
- 丸山が「神武天皇陵」に決定したならば、洞村の人たちは、立ちのきを命ぜられることが必至であると予想された。洞村の人たちにとっては、死活問題であった。
- 幕府がわは、時間にさしせまっており、洞村の人たちを、強制移転させる時間的余裕がなかった。
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