御機の三十三〔神祟め疫病治す紋〕【1】ここだけは紹介しておきたい!|秀真伝

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御機の三十三〔神祟め疫病治す紋〕

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御機の三十三〔神祟め疫病治す紋〕の概略

【1】第10代崇神天皇の即位
            崇神1年とは、天鈴621(紀元前97)年。
【2】三種神宝の遷座
            崇神3年に新都・磯城瑞籬宮。
            崇神4年に八咫鏡(天照神)と八重垣剣(大国魂神)を宮中から遷座。
              宮中にはそれぞれ複製を留め置いた。
             (※)八重垣剣とは叢雲剣のことだ。
            崇神5年に疫病が流行り、半数近くの人民が死に絶えた。
            崇神6年に民の離散。
             それを受けて、八咫鏡(天照神)と八重垣剣(大国魂神)のための宮を造営。
【3】大物主命の神託と夢の告げ
            崇神7年2月3日 に百襲姫の湯立て神事によって「大物主神」の神託。
【4】臣下たちの夢あわせと大直種子の出現
            崇神7年8月7日 。
【5】三輪神の祭祀
            崇神7年10月1日 大直種子。
【6】三輪神とうまし酒
            崇神8年4月4日 直会の席。
【7】大直種子命の魂返し
            崇神9年3月15日 魂返しの夢。
【8】四方の教え人の派遣と少女の歌
            崇神10年7月24日 四道将軍の派遣。

【1】第10代崇神天皇の即位

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の三十三〔神祟め疫病治す紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P374-393 )

時(とき)天鈴(あすず) 六百二十一年(むもふそひとし) 紀元前97年
キナヱ春 正月(むつき)ネシヱ初(は)  
十三日(そみ)キシヱ 五十瓊殖(ゐそにゑ)の御子(みこ) 1月13日
歳(とし)五十二(ゐそふ) 天(あま)つ日嗣(ひつぎ)お  
受(う)け嗣(つぎ)て 御間城入彦(みまきいりひこ)  
天つ君 三種宝(みぐさ)使ひも  
天例(あめため)し 民(たみ)に拝(おが)ませ  
母(はは)お崇(あ)げ 御上(みうゑ)后(きさき)と  
百二十一歳(ももふそひ) 大母(おおはは)の歳(とし)  
百六十二歳(ももむそふ) 大御后(をおんきさき)と  
初年(はつとし)の 二月(きさらぎ)サウト  
十六日(そむ)ツミヱ 大彦命(おおひこ)の女(め)の  
今年(ことし)十一歳(そひ) 召(め)して后(きさき)の  
御間城姫(みまきひめ) 紀荒河戸畔命(きあらかとべ)が  
遠津年魚姫(とおつあひ) 眼妙姫内侍(めくわしうちめ)  
大典侍(おおすけ)に 近江命(あふみ)が八坂(やさか)  
振色根姫(ふりいろね) 仮典侍(かりすけ)となる  
尾張命(おはり)が女(め) 大海姫(おおあま)内侍(うちめ)  
長橋(ながはし)の 璽(をして)執(と)る守(もり)  
これの先(さき) 眼妙姫(めくはし)が生む  
豊耜入姫(とよすきめ) 大海姫(おおあま)が生む  
渟名城姫(ぬなぎひめ) 眼妙姫(めくはし)が生む  
大和彦尊(やまとひこ) 諱(いむな)五十杵尊(いそきね)  
八坂姫(やさか)生む 八坂入彦(やさかいりひこ)  
大杵尊(おおきね)ぞ 故(かれ)母(はは)お崇(あ)ぐ  

【2】崇神3年新都、崇神4年の三種神宝の遷座、崇神5年の疫病の流行と民の離散

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の三十三〔神祟め疫病治す紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P374-393 )

三穂(みほ)九月(なづき) 磯城(しぎ)瑞籬(みづがき)に 崇神3年、天鈴623年9月。
「磯城」は、奈良県磯城郡。
「瑞籬」は、『大和志』によると「古蹟在三輪村東南、志紀御県神社西」と見える。
現在の奈良県桜井市金屋付近のこと。
第10代崇神天皇 磯城瑞籬宮伝承地の史貴御県坐神社がある。
実際の宮跡はこの神社の境内ではなく、境内の西側にある天理教会の建物とその北隣りの三輪小学校のあたりにあったと推定されている。
新都(にいみやこ) 四穂(よほ)メ二十三日(すえみか) 崇神4年、天鈴624年10月23日
勅(みことのり) 「御祖(みをや)の授(さづ)く  
三種(みぐさ)もの 国常立尊(くにとこたち)は 神璽 → 国常立尊の依代
神璽(かんをして) 天照神(あまてるかみ)は 八咫鏡 → 天照神の依代
八咫鏡(やたかがみ) 大国魂神(おおくにたま)は 八重垣剣(叢雲剣) → 大国魂神の依代
八重垣剣(やゑがき)と 常に祭りて 「八重垣剣」とは叢雲剣のことか?
『秀真伝』(御機27−27)「この叢雲剣は 生れませる 御子の祝いに ささげよ」と第5代大物主の蕗根命が第6代櫛甕玉命(鰐彦)に託す。
『秀真伝』(御機27−32)「八重垣剣は鰐彦に 授くお姫が 預かりて 別雷宮に 納め置く」
倭姫が御杖代になったとき、八咫鏡と叢雲剣(八重垣剣)を捧持され、伊勢の地にもたらされた。
身(み)と神(かみ)と 際(きは)遠(とほ)からず  
殿床(とのゆか)も 器(うつわ)もともに  
住(す)み来(きた)る やや稜威(いづ)恐(おそ)れ  
安(やす)からず 天照神(あまてるかみ)は  
笠縫(かさぬひ)に 豊耜入姫(とよすき)に 崇神4年、天鈴624年10月23日の勅命。
豊耜入姫が檜原神社(ひばら)で天照神(八咫鏡)を祀る。
その後、天照神(八咫鏡)は倭姫の手によって伊勢の地に遷された。
祭(まつ)らしむ 大国魂神(おおくにたま)は  
渟名城姫(ぬなぎひめ) 山辺の里に 崇神4年、天鈴624年10月23日の勅命。
渟名城姫が大和神社で大国魂神(八重垣剣)を祀る。
祭(まつ)らしむ 石凝留命(いしこりどめ) 石凝留命の孫に、鏡を造らせ複製を宮中に留める
孫(まご)鏡 天目一箇神(あめひとかみ)の 天目一箇神の孫に、剣を造らせ複製を宮中に留める。
孫(まご)剣 さらに造(つく)らせ  
天照(あまて)らす 神(かみ)の璽(をして)と 天照神の顕された神璽(国常立尊)は、複製が造られることなく、そのまま宮中に留め置かれた。
この三種(みぐさ) 天(あま)つ日嗣(ひつき)の 崇神4(天鈴624)年に複製された八咫鏡と八重垣剣、複製されることがなかった天照神の顕された神璽(国常立尊)が三種神宝。
神宝(かんたから)」 五年(ゐとし)疫病(ゑやみ)す 崇神5年、天鈴625年。
疫病が流行り、半数近くの人民が死に絶えた。
半(なか)ば枯(か)る 六年(むとし)民(たみ)散(ち)る 崇神6年、天鈴626年。
民の離散。
勅(ことのり)に 治(た)し難(がた)し枯(か)れ  
つとに起(お)き 罪(つみ)神(かみ)に請(こ)ふ  
二宮(ふたみや)お 新(さら)に造(つく)らせ  
六年(むとせ)秋(あき) 大国魂(おおくにたま)の 崇神6(天鈴626)年秋
神遷(かみうつ)し 九月(なつき)十六日夜(そむかよ) 崇神6(天鈴626)年9月16日夜、
大国魂神の宮遷し、
大和神社
明日(あす)の夜(よ)は 天照神(あまてるかみ)の  
宮遷(みやうつ)し 豊(とよ)の明(あか)りの 崇神6(天鈴626)年9月17日夜、天照神の宮遷し、
→ 檜原神社(ひばら)へ。
色(いろ)もよく いざとも神(かみ)は  
降(くだ)ります イロのツズ歌  
いざ遠(とほ)しゆきのよ  
ろしも大夜(おほよ)すがらも  

【3】疫病の流行と民の離散に対する大物主命の神託と夢の告げ

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の三十三〔神祟め疫病治す紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P374-393 )

七穂(なほ)二月(きさら) 三日(みか)勅(みことのり) 崇神7(天鈴627)年2月3日
「わが御祖神(みをや) 開(ひら)く基(もとひ)は  
盛(さか)んなり わが世に当(あた)り  
汚穢(おえ)あるは 祭(まつ)り届(とど)かぬ  
咎(とが)めあり 蓋(けだ)し極(きわ)めて  
寄(よ)るなり」と 朝日(あさひ)の原(はら)に 朝日原(真名井原)
行幸(みゆき)して 八百万神(やもよろ)招(まね)く  
湯の花の 百襲姫(ももそひめ)して 「湯の花」とは湯立ての神事。
宣(のり)ごちに サツサツズ歌(うた)  
去る民(たみ)もツズにま  
つらで汚穢(おゑ)に乱(みだ)るさ  
君(きみ)問(と)ふて 「かく教(をし)ゆるは  
誰(た)れ神(かみ)ぞ」 答えて「われは  
国(くに)つ神(かみ) 大物主命(おおものぬし)ぞ」 三輪山に祭られている。
ここでいう大物主は、大物主の奇杵命・奇彦命・蕗根命・櫛甕玉命のどちらであろうか?
三輪山の祭祀の始まりが、奇彦命が三輪山で神上がったことに求められるとすれば、ここの大物主命は奇彦命であろう。
君(きみ)祭(まつ)る こと兆(しるし)無(な)し  
斎浴(ゆあ)びして 清(すが)に祈(いの)りて  
告(つ)げ申(もふ)す 「われ敬(うやま)えど  
受(う)けざるや」 この夜(よ)の夢(ゆめ)に  
「われはこれ 大物主(おおものぬし)の  
神(かみ)なるが 君(きみ)な憂(うれ)ひぞ  
治(た)せざるは わが心(こころ)あり  
わが裔(はつこ) 大直根子(おおたたねこ)に 大御毛主命の孫か?
大御毛主命のあとをうけ、『秀真伝(ほつまつたゑ)』29紋から40紋までを書き加えた全紋の撰者。
祭(まつ)らさば 等(ひと)しく均(なれ)て  
外国(とつくに)も まさに服(まつら)ふ」  

【4】臣下たちの夢あわせと大直種子の出現

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の三十三〔神祟め疫病治す紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P374-393 )

八月(はつき)七日(なか) 迹速命(とはや)が茅原(ちはら) 崇神7(天鈴627)年8月7日
眼妙姫(めくはしめ) 大水口命(おおみなくち)と  
伊勢麻績命(いせをうみ) 三人(みたり)帝(みかど)に 三人が同じ夢を見た。
迹速命の娘・茅原眼妙姫
大水口命
伊勢国の麻績命
告(つ)げ申(もふ)す 「夢(ゆめ)に神(かみ)あり  
大直根子命(たたねこ)お 大物主神(おおものぬし)の 三輪山に祭られている。
ここでいう大物主は、大物主の奇杵命・奇彦命・蕗根命・櫛甕玉命のどちらであろうか?
三輪山の祭祀の始まりが、奇彦命が三輪山で神上がったことに求められるとすれば、ここの大物主命は奇彦命であろう。
斎主(いわいぬし) 磯長尾市命(しながおいち)お 市磯長尾市とは、神武東征のとき水先案内を勤め、即位後、大倭国造に任ぜられた椎根津彦(シイネツヒコ・神知津彦-カミシリツヒコ・宇豆彦-ウズヒコともいう)の子孫で、大倭直氏(大和連・大和宿禰)の祖とされる。
新撰姓氏禄には、「大和国神別(地祇) 大和宿禰 神知津彦命より出ず
(神武の水先案内を務めたとの記事の後に)天皇之を嘉し、大倭国造に任ず。是大倭直の始祖也」
「摂津国神別(地祇) 大和連  神知津彦命十一世孫御物足尼之後也」
が見える。
大倭直氏は奈良時代を通じて当社の祭祀を司ったが、平安時代には衰微し、中世になると史上から消えたという。
大日本(おほやまと) 国魂神(くにたまかみ)の 大日本国魂神とは第2代大物主・奇彦命に与えられた尊称であるが、崇神天皇のとき大日本国魂神が奇彦命とは別の神格をもって現れたようだ。
天之逆矛の神格化を大日本国魂神と捉えておく。
神代の昔、奇彦命が天之逆矛をもって三輪山で神上がられたが、時を経て、天之逆矛が神格化されて現れてきたのだ。
斎主(いわいぬし) なさば平(む)けべし」  
君(きみ)これに 夢(ゆめ)合(あ)わせして  
触(ふ)れ求(もと)む 大直根子命(おおたねこ)お  
茅渟陶村(ちぬすゑ)に ありと告(つ)ぐれば  
君(きみ)やぞと 茅渟(ちぬ)に行幸(みゆき)し 茅渟は和泉国一帯の古称。
陶村は和泉国大島郡陶器荘。
現在の大阪府堺市東南部、陶器山からその西方にかけての地。
『延喜式神名帳』に「大島郡陶荒田神社」がみえる。
大直根子命(おおたたねこ)に 「誰(た)が子(こ)ぞ」と問ふ  
答えには 「昔(むかし)大物主(ものぬし) 大物主の子守神のこと。
陶津耳命(すえすみ)が 活玉依姫(いくたま)と生む 活玉依姫は子守神の后
大物主(ものぬし)の 大三輪神(おおみわかみ)の ここの大物主は子守神の子の第4代大物主の神立命のこと。
大三輪神とは、第6代大物主の櫛甕玉命のことか?
裔(はつこ)なり」 君(きみ)栄(さか)えんと  
楽(たの)しみて 伊木色雄命(いきしこお)して  
占(うらな)わす これまことよし  
よそ神(かみ)お 問(と)えば太占(ふとまに)  
占(うら)悪(わる)し    

【5】三輪神の祭祀

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の三十三〔神祟め疫病治す紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P374-393 )

メ月(つき)初日(はつひ)に 崇神7(天鈴627)年10月1日
「メ月」は、他の箇所に載るその記述と『紀』の記述を比べると10月に相当すると考えられるが、確証を欠くので、本文・口語訳ともにしばらくカタカナ名で表記する。
伊木色雄命(いきしこを) 八十瓮(やそひらか)なし  
これお以(も)て 大直根子命(おおたたねこ)お  
斎主(いわひぬし) 大三輪(おおみわ)の神(かみ)  
長尾市命(ながおいち) 大国魂神(おおくにたま)の  
斎主(いわひぬし) あまねく触(ふ)れて  
神(かみ)崇(あが)め 神名文(かみなふみ)なす 「神名文」とは後の神名帳の原型
神部(かんべ)して 八百万神(やもよろかみ)お  
祭(まつ)らしむ 疫病(ゑやみ)平(む)け癒(い)え  
ゾロ稔り 民(たみ)豊(ゆた)かなり 「ゾロ」稲および畑の穀物

【6】三輪神とうまし酒

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の三十三〔神祟め疫病治す紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P374-393 )

八穂(やほ)サトミ 四月四日(うよか)高橋(たかはし) 崇神8(天鈴628)年4月4日
村(むら)活日(いくひ) うま酒造(ささつく)り 『日本書紀』に「高橋邑の人 活日(いくひ)」と見える。
三輪神(みわかみ)に その神酒(みき)うまし  
十二月(しはす)八日(やか) 大直根子命(おおたたねこ)祭(まつ)り  
行幸(みゆき)なる 活日(いくひ)が酒(さけ)に  
御饗(みあえ)なす 君(きみ)の御歌(みうた)に  
この神酒(みき)は わが神酒(みき)ならず  
大和(やまと)なる 大物主(おほものぬし)の  
神(かみ)の神酒(みき) 活日(いくひ)授(さづ)くる  
杉葉(すぎは)幾久(いくひさ)    
御饗(みあえ)終(お)え 臣(とみ)ら歌(うた)ふて  
うま酒(さけ)や 身(み)は三輪(みわ)の殿(との)  
朝戸(あさと)にも 出(ゐ)でて行(ゆ)かなん  
三輪(みわ)の殿戸(とのと)お    
時(とき)に君(きみ) これ返歌(かえうた)に  
うま酒(さけ)に 身は三輪(みわ)の殿(との)  
朝戸(あさと)にも 押し開(ひら)かねよ  
三輪(みわ)の殿戸(とのと)お    
殿戸(とのと)押(お)し 開(ひら)き帰(かへ)ます  

【7】大直種子命の魂返し

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の三十三〔神祟め疫病治す紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P374-393 )

九穂(こほ)三月(やよひ) 望(もち)の夜夢(よゆめ)に 崇神9(天鈴629)年3月15日の夜の夢。
神の告げ 「赤白黄(かしき)矛(ほこ)立(た)て  
神(かみ)祭(まつ)れ」 宇陀墨坂(うだすみさか)も  
大坂(おおさか)も カワセサガミオ  
残(のこ)りなく これ罪人(つみびと)の  
魄(しい)留(とど)む 疫病(ゑやみ)なすゆえ  
四月二十二日(うすえふか) 大臣(をとみ)大鹿島命(かしま)と  
大直根子命(たたねこ)と 魂返(たまかえ)し法(のり)  
祭(まつ)らしむ 故(かれ)に明(あか)るき  

【8】四方の教え人の派遣と少女の歌

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の三十三〔神祟め疫病治す紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P374-393 )

十穂(そほ)ネヤト 七月(ふづき)二十四日(すえよか) 崇神10(天鈴610)年7月24日
勅(みことのり) 「民(たみ)治(た)す教(をし)え  
神祭(かみまつ)り やや汚穢(をゑ)去(さ)れど  
遠(とお)つ国(くに) 荒人(あらひと)法(のり)お  
まだ平(む)けず 故(かれ)四方(よも)に教人(をし)  
遣(つか)はして 法(のり)教(をし)えしむ」  
九月(なつき)九日(こか) 大彦命(おおひこ)おして 崇神10(天鈴610)年9月9日
大彦命 → 越の国
越(こし)の教人(をし) 武渟名川命(たけぬなかわ)お 武渟名川命 → 秀真国
秀真(ほづま)教人(をし) 吉備津彦命(きびつひこ)して 吉備津彦命 → 西南の国々
西南(つさ)の教人(をし) 丹波道主命(たにはちぬし)お 丹波道主命 → 丹波の国
丹波(たには)教人(をし) 教(をし)え受(う)けずば  
綻(ほころ)ばせ 璽(をして)賜(たま)はり  
軍(いくさ)立(た)ち 各々(おのおの)発(た)てば  
望(もち)の日(ひ)に 大彦命(おおひこ)至(いた)る 崇神10(天鈴610)年9月15日
那羅坂(ならさか)に 少女(おとめ)が歌(うた)に  
見よ御間城(みまき) 入彦(いりひこ)あわや  
己(おの)が添(そ)ゑ 盗(ぬす)みしせんと  
後(しり)つ戸(と)お い行(ゆ)き違(たが)ひぬ  
前(まえ)つ戸(と)よ い行(ゆ)き違(たが)ひて  
窺(うかが)わく 知(し)らじと御間城(みまき)  
入彦(いりひこ)あわや    
大彦命(おおひこ)は 怪(あや)しく帰(かえ)り  
これに問(と)ふ 「少女(おとめ)が曰(いわ)く  
『われは歌(うた) 歌(うた)ふのみ』とて  
消(き)え失(う)せぬ 胸騒(むなさわ)ぎして  
立(た)ち帰(かえ)りけり」