御機の三十〔天君都鳥の紋〕【1】ここだけは紹介しておきたい!|秀真伝

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御機の三十〔天君都鳥の紋〕

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御機の三十〔天君都鳥の紋〕の概略

【1】別雷天君(瓊瓊杵尊)から鵜葺屋葺不合尊、三種の神宝・・

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の三十〔天君都鳥の紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P127-170 )
天君(あまきみ)の もとは御孫(みまご)の  
雷(いかづち)お 別(わ)けて治(をさ)むる  
大御神(ををんかみ) 褒(ほ)めて御孫(みまご)は 「大御神」とは、天照神のこと。
天神(あまかみ)の 顕(あら)はる稜威(いづ)と  
賜(たま)ふ名(な)は 別雷(わけいかつち)の  
天君(あまきみ)と 三種神宝(みぐさ)も別(わ)けて  
天御孫(あまみまご) 左(ひだり)春日神(かすが)と  
右(みぎ)子守神(こもり) 世々(よよ)受(う)け嗣(つ)ぎて  
御祖君(みおやぎみ) 筑紫(つくし)降(くだ)るも 「御祖君」とは、鵜葺屋葺不合尊のこと
神璽(かみおして) 持(も)ちて離(はな)さず  
八咫鏡(やたかがみ) 臣(とみ)天押雲命(おしくも)に 八咫鏡は、天押雲命(天之種子命の親神)に授け置かれる。
(※)天押雲命(天之種子命の親神)は、天之児屋根の子どもで枚方神社でも祀られている。
八重垣剣(やえがき)は 櫛甕玉命(くしみかたま)に 八重垣剣は、櫛甕玉命に授け置かれる。
(※)櫛甕玉命とは、出雲と三輪山の御祭神である。
授(さづ)け置(お)き 御祖神(みおや)筑紫(つくし)に  
日(ひ)足(た)るとき 神(かみ)の璽(をして)は 鵜葺草葺不合尊が神上がられる時、神の璽は武仁尊に授けられた。
武仁尊(たけひと)に 母(はは)玉依姫(たまより)も  
神(かみ)となる 鏡(かがみ)は河合宮(かあひ) 鵜葺草葺不合尊が神上がられてから、神の璽を玉依姫が預かっていましたが、玉依姫も神上がられると、八咫鏡は河合宮、八重垣剣は別雷宮(上鴨神社)に預け置かれた。
八重垣剣(やえがき)は 別雷宮(わけつちみや)に  
預(あづ)け置(お)く    

【2】長髄彦の反乱、櫛甕玉命と天押雲命が征討、五瀬尊が筑紫へ下る

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の三十〔天君都鳥の紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P127-170 )
     

【3】天鈴58年1月1日、橿原の宮で神武天皇の即位の大礼、11月大嘗ヱ

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の三十〔天君都鳥の紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P263-268 )
  今(いま)天君(あまきみ)の  
位(くらい)なる 昔(むかし)は御上天君(みうゑ)  御上天君とは瓊瓊杵尊のこと。
 24紋に
 「三種神宝お分けて 授く心は 永く一つに なる由お 紋に印して」〔24−6〕
 と天照神から瓊瓊杵尊への三種神器を分けて授けたこた記されている。
分(わ)け授(さづ)く 今(いま)はなきゆえ 今はその制がないので、という義。
その使(つか)ひ よりて議(はか)れば  
みな曰(いわ)く 日(ひ)の神(かみ)使(つか)ひ 日の使いは道臣命が務め、璽の御筥(『御機織留の文』が入っている)を武仁君に授ける。
道臣命(みちおみ)と 月(つき)の使(つか)ひは 月の使いは、天田根命が勤め、天田根命は天種子命に河合宮の八咫鏡を授ける。
後に、八咫鏡は五十姫へ渡され、内つ宮に納められる。
天田根命(あたね)なり 星(ほし)の使(つか)ひは 星の使いは、天富命が勤め、別雷宮(上鴨神社)の天之叢雲剣を櫛甕玉命に授ける。
後に、天之叢雲剣は吾平津姫へ渡され、内つ宮に納められる。
天富命(あめとみ)と 忌部(いんべ)賜(たま)わり  神代以来の氏族。
 後世、斎部と改められる。
 忌は斎戒の意で、神事に携わる伴部であったのでこの名が付けられたとされる。
 伊勢、阿波、讃岐、出雲、筑紫などの忌部があって、中央の忌部氏がこれを統括していた。
 その祖を天太玉とする。
 天太玉命は『秀真伝』では、高皇産霊・高杵尊の子。
 太玉命の孫とされる天富命は神武天皇に仕え、神物を調え、阿波忌部を率いて東国を拓殖し、安房国に太玉命を奉祀した。
 これが今の安房神社とされる。
 斎部氏の長である斎部首は、鏡・玉・矛・盾・木綿・麻・宮殿などを造るのを職としていた。
禊(みそぎ)なす 時(とき)に橿原(かしはら)  
天皇(すめらき)の 御世(みよ)新玉(あらたま)の  
鈴サナト サヤヱ初日(はつひ)の  天鈴58年。
 日数にキアヱ暦を使用しているのはここで初めてみえる。
おめでたも 筑紫(つくし)の例(ため)し  
可美真手命(うましまち) 十種(とくさ)捧(ささ)げて  
天種子命(あめたねこ) 神代(かみよ)古事(ふること)  
奉(たてまつ)る 七草(ななくさ)糝(みそ)も  
とんど火(ほ)も 神在(かみあり)粥(かゆ)  「とんど火」小正月の火祭り。
行(おこな)われ サアヱ日嗣(ひつぎ)と  正月14日
天富命(あめとみ)は 別雷宮(わけつちみや)の  
剣(つるぎ)持(も)ち 天田根命(あたね)は鏡(かがみ)  
持(も)ち上(のぼ)る    

【4】天鈴59年1月11日、論功行賞

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の三十〔天君都鳥の紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P268-268 )
  次春(つぎはる)十一日(そひか) 天鈴59年1月11日
勅(みことのり) 「思(おも)えば忠(まめ)は  
可美真手(うましまち) 代々(よよ)物部(もののべ)嗣(つ)げ  
道臣(みちをみ)と 望みのままに  
築坂(つきさか)と 久米村(くめ)の地(ところ)お 「築坂」橿原市鳥屋町あたり。
「久米村」は『倭名類聚鈔』に、高市郡久米郷と見える。今の橿原市久米町付近。
賜(たま)うなり 珍彦(うつひこ)がこと 「珍彦」椎根津彦命
船(ふね)と埴(はに) 大和国造(やまとくにつこ) 「埴」ここでは土地のこと。
神武紀元年の条には「道臣命(みちのおみ)に宅地(いへどころ)を賜ひて」とみえる。
「大和国造」『旧事紀』巻十「国造本紀」には「橿原朝御世、以椎根津彦命初為大倭国造」と記されている。
弟猾(おとうけし) 猛田(たけだ)県主(あがたし) 『紀』には「弟猾に猛田邑を給ふ。因りて猛田県主とす。是菟田主水部が遠祖なり」とある。「猛田」は、『日本書紀通証』では十市郡竹田村とするが、『大日本地名辞書』では、これでは地理が合わぬとして宇陀郡の地としている。
黒速(くろはや)は 磯城(しぎ)の県主(あがたし) 磯城の県主については『紀』に「弟磯城、名は黒速を、磯城の県主とす」とある。
天日別(あめひわけ) 伊勢(いせ)の国造(くにつこ) 「伊勢の国造」については、『万葉集注釈』所引『伊勢国風土記』逸文に「夫れ伊勢の国は、天御中主命の十二世の孫、天日別命の平治けし所なり。天日別命は、神倭磐余彦の天皇、彼の西の宮より此の東の洲を征ちたまひし時、天皇に随ひて(中略)此の国(伊勢)を懐け柔して、天皇に復命まをしき。天皇、大く歓びて、詔りたまひしく、『国は宜しく国神の名を取りて、伊勢ろ号けよ』とのりたまひて、即て、天日別命の封地の国と為し」とみえ、本書の記述と従来の史伝の間に著しい隔たりはない。
天田根神(あたねかみ) 賀茂(かも)の県主(あがたし) 本書において、賀茂の県主に任命されたと記される天田根神は、『旧事紀』巻十「国造本記」に「橿原朝御世。阿多根命為山代国造」とみえるのみで、賀茂の県主との関係については、一切伝がない。
天田根神の伝承が失われている。
勝手孫(かってまご) 剣根(つるぎね)葛城(かつらぎ) 剣根命は勝手神の孫。
『紀』に「復剣根といふ者を以て、葛城国造とす」とみえる。『旧事紀』巻十「国造本紀」に「橿原朝御世、以剣根命初為葛城国造」とある。
国造(くにつこ)ぞ 八咫烏(やたがらす)孫(まご)  
葛野主(かどのぬし)」    

【5】天鈴60年(即位3年)、天種子命と櫛甕玉命のご祈祷

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の三十〔天君都鳥の紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P268-269 )
  三穂(みほ)の五月雨(さみだれ) 天鈴60年(神武即位3年)
四十日(よそか)降(ふ)り 疫病(ゑやみ)流行(はや)りて  
稲(ゐね)みもち 君(きみ)に告(つ)ぐれば  
天種子命(あめたねこ) 櫛甕玉命(くしみかたま)と  
野洲川(やすかわ)の 仮屋(かりや)に祈(いの)り  
時(とき)疫病(ゑやみ) 治(なお)ると稲(ゐね)の  
痛(いた)み去(さ)る 直(なお)りの祓(はら)ひ  
行(おこな)えば 疫病(ゑやみ)も治(なお)り  
稲(ゐね)治(なお)る ゆえ勅(みことのり)  
「鰐彦(わにひこ)が 御祖(みおや)奇彦(くしひこ) 櫛甕玉命(くしみかたま)
諫(いさ)めいる 直(なお)きに賜(たま)ふ  奇彦命(くしひこ)は父・奇杵命(くしきね)の大己貴(おおなむち)の奢りを諫め、奇玉火之明尊の斑鳩宮遷宮の翌日に飛鳥宮に遷宮するという暴挙を諫めた。
大和神(やまとかみ) 三世輪(みよわ)の直(なお)き  
功(いさおし)に 直(なお)り大物主(ものぬし)  
神(かみ)賜(たま)ふ 天種子(あめたねこ)も御祖(みをや)  
若彦(わかひこ)が 直(なお)き鏡(かがみ)の 天児屋根命
事(こと)嗣(つ)げば 直(なお)り中臣(なかとみ)  
神(かみ)賜(たま)ふ ともに嗣(つ)ぐべし」  

【6】天鈴61年(即位4年)、天富命に命じて
鴨社を遷し宇陀市榛原の鳥見山に御祖神(鵜葺屋葺不合尊)を祀る

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の三十〔天君都鳥の紋〕(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P269-270 )
四穂(よほ)二月(きさら) ネウエのキナエ 天鈴61年(神武即位4年)2月
勅(みことのり) 「御祖(みをや)の神(かみ)の 神武天皇の父・鵜葺屋葺不合尊のこと
都鳥(みやこどり) わが身(み)お照(て)らし  
仇(あだ)平(む)けて みな治(をさ)むゆえ  
天富(あめとみ)に 賀茂社(かも)お遷(うつ)させ  太玉命の孫に当たる天富命は、神武天皇即位の大礼のとき、三種の神器の受け渡しのとき、道臣命(日の使い)・天田根命(月の使い)とともに、「星の使い」となった。
 現・墨坂神社のある天野の地が天富命の邸跡とも伝えられていることを鑑みると、天富命は、現在の墨坂神社のある地に住んで、京都から遷座された賀茂社を鳥見の山中に設け(霊畤)、鵜葺屋葺不合尊(御祖神)を祀られたのだろう。
 この後、天富命は阿波忌部を率いて千葉県館山市の安房神社のある地に渡り、東国開拓に着手された。
 千葉県に神武天皇の母・玉依姫が祀られているところが多く、鳥見神社が多いのは、神武即位4年に天富命が宇陀市鳥見山(霊畤)で御祖神を祀られた記憶が多大に影響しているのだと思う。
御祖神(みをやかみ) 祭(まつ)る榛原(はりはら)  
鳥見山(とりみやま) 天田根(あたね)お賀茂(かも)の  
建祗命(たけすみ)の 祭(まつ)り嗣(つ)がせて  
国造(くにつこ)ぞ」 正月(むつき)十一日(そひか)は 天鈴62年(神武即位5年)
県主(あがた)召(め)し 神酒(みき)お賜(たま)はる  
初(はじ)めなるかな