5度の岩戸閉め ・岩戸開き ・建替え建直し 月の光
  京都 梅宮大社・月読神社・松尾大社   
トピック 梅宮大社(京都府京都市)
月読神社(京都府京都市)
松尾大社(京都府京都市)
松尾大社の摂社(京都府京都市)
月読神社(京都府京田辺市)
薪神社(京都府京田辺市)
甘南備神社(京都府京田辺市)
大井神社(亀岡市)
樺井月神社(京都府京田辺市)
 平成18年4月8日、ある方とのやり取りのなかで、頂戴した言葉。
 「 梅宮大社、南11、左5、まわる 」

 私のホームページ「月の光」にちなんだ月読神社に焦点があってくるのなら行くしかないだろう。

 平成18年4月29日早朝(明けてすぐ)、東京発。

公のサイト 神社名      概    要
公式サイト  梅宮大社

京都市右京区梅津フケノ川町30
TEL:075-861-2730
   
ご祭神】より
本殿4座:
      酒解神(大山祇神)
      酒解子神(木花咲耶姫命)
      大若子神(瓊々杵尊)
      小若子神(彦火々出見尊、ニニギ尊の御子神)

相殿四座:
      橘清友(太政大臣)
      橘嘉智子(清友の子、嵯峨天皇の皇后)
      嵯峨天皇(786-842)
      仁明天皇(嵯峨天皇の御子)

御由緒】より
 当社は今から凡そ千三百年前、橘氏の祖・諸兄(モロエ、684-757)公の母、県犬養三千代(アガタイヌカイミチヨ)が、橘氏一門の氏神として始めてお祀りした神社です。その鎮座の地は山城国相楽郡井出庄(ヤマシロノクニソウラクグンイデノショウ)すなわち、今の綴喜群井出町付近(マピオン地図)であったと伝えられています。

 其の後、天平宝字年中、千二百五十年ばかり前に、聖武天皇の妃・光明皇后と藤原武智麻呂〔ムチマロ)夫人の牟婁(ムロ)女王が奈良の都に御遷座になり、更に泉川(木津川)の上流かせ山を経て平安時代の始め、嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(タチバナノカチコ<檀林皇后>)によって現在の地に遷しまつられました。当時、皇后は親しく行啓して盛大な祭儀を行われましたが、神前で雅楽が奉納されましたことは、此の時を最初の例とし以来、梅宮祭は四月上の酉の日に行われ、雅楽祭の名を高めました。

 仁明(ニンミョウ)天皇は、千百五十年ばかり前、承和年中にこの祭を特に名神祭という国家の主要な神祭の中にお加えになり、醍醐天皇の御代に定められました延喜式(エンギシキ)では、国家の制度にのっとり、
名神大社というもっとも高い格式に置き、祈年祭(トシゴイマツリ)・月次祭(ツキナミサイ)・新嘗祭(ニイナメサイ)には朝廷からの幣帛(ヘイハク)を新饌台(シンセンダイ)の上に載せて奉るという、案上の官幣と呼ばれる最高の儀礼をもってまつられることになりました。

 更に日本中で特選された
二十二の大社の中に加えられ、明治の初めには官弊社に列せられました。
 相殿四座がおまつられになりましたのは、文徳(モントク)天皇の仁寿年中で、千百年ばかり前のことです。
 代々橘氏の長者がお仕へしていましたが、県犬養三千代夫人が橘氏の祖でありますと共に、
藤原不比等公の夫人となられました御関係から、藤原氏の摂政又は関白の家筋の方が橘氏長者を代行され、此の神社に藤原氏の氏神春日神社と同様の崇敬を捧げられました。

 このように橘氏は橘・藤原の二氏が長者となりましたので、特に此の氏(橘氏)に限って長者の事を是定(ゼジョウ)と呼ばれていました。もって橘氏の家格の尊さと梅宮大社の神威の偉大さがうかがわれます。


------------------------------
古墳のある町並みから名神大社二十二社参拝(一覧)梅宮大社

------------------------------
井出寺〜京都府綴喜郡井手町教育委員会調査】より
 井手寺は橘諸兄(684-757)が橘家の氏寺として建立した古代寺院です。創建当初、「井堤寺(いでじ)」でしたが、それが転化して井手寺となりました。
井手寺のあった辺りは、明治以降に開墾され、現在では、井手寺の建物跡がどこにあったのかわからなくなっています。
 15年度の調査では壇上積基壇上で4つの礎石据付穴が検出されています。
 今回はこの建物と関連があると考えられる石敷きが検出されたことが一番の成果でしょう。


現説公開サイト井出寺跡〜】
京都府綴喜郡井手町大字井手小字東高月
      ⇒goo地図
 月読神社
京都市西京区松室山添町15
  
地図で見ると梅宮大社から南へ行き、そして左へ行く。

「月の光」に大いに縁がある神社であることは確かだ。

------------------------------
 松尾大社インデックス松尾大社の摂社 より
【ご祭神】
    月読尊


聖徳太子社は月読尊を敬祭された太子の徳を称えて祀ったとものといわる。
御船社は、天鳥船神を祭神とし、毎年神幸祭の前に渡御安全祈願祭を執行する末社です。
月延石安産石とも称し、神功皇后が腹を撫でて安産せられた石を、月読尊の神託により、舒明天皇が伊岐公乙等を筑紫に遣わして求められ、当社に奉納されたという伝説(雍州府志)がある。

------------------------------
神奈備>葛野坐月読神社 より(旅行に必要な箇所のみ抜粋)
【由緒】
 山城国葛野郡の式内社。創建の由緒が『日本書紀』に記されている。顕宗天皇三年(487年) 阿閉臣事代、命を衝けて、出でて任那に使す。是に、月神、人に著りて謂りて曰はく。 「我が祖高皇産霊、預ひて天地を鎔ひ造せる功有します。民所を以て、我が月神に奉れ。 若し請の依に我に献らば、福慶あらむ」とのたまふ。事代、是に由りて、京に環りて具に奏す。 奉るに歌荒樔田を以てす。

 歌荒樔田は。山背国葛野郡に在り。壱伎県主の先祖押見宿禰、祠に侍ふ。とある。

 壱岐郡の式内の名神大社月讀神社が鎮座、(名神大)、祭神は中月夜見尊、左月弓尊、右月讀尊とあり、 対馬の古族が日神、壱岐は月神を祀ったのは亀卜と関係しているとのことである。 壱岐の豪族であった安倍氏は後に中臣氏と祖先を共通としたようである。

【お姿 】
旧鎮座地の歌荒樔田については『京都名所図絵』によれば、「松尾橋より南で、桂川右岸の月読塚の場所(桂上野町)や、桂の里(下桂村)、下嵯峨斎宮神社などが候補。
 当社の領地であるが、山城各地に禰宣田が分布、また山林や松室に屋地のほか、松尾前の河原田方五町余(梅木原二段を含む)とあり、この比定地としては、大井川沿いに字河原町、字川原町の名が見えるように松室から桂上野にかけての地域と思われる。要は移転前の鎮座地周辺と言えよう。歌荒樔田を月読塚の位置とする一つの根拠となろう。

【掲示板 】⇒http://kamnavi.jp/log/yumv0503.htm
恋川亭
 月の神様と樹木・・・と言えば、『山城国風土記』逸文「桂の里」の条でしょうか。
 影向・・・と言えば、綴喜郡田辺町大住郷に月読神社。その南に神奈備である『甘南備山』と甘南備神社。さらにその甘南備山の北東麓の薪村(タキギムラ)に、薪神社があって、その境内に『月読神の影向石』があるそうです。
 自分で参拝したことはありません。白水社『日本の神々・5』(山城・近江編)に載っていました。お探しの神社とは異なると思いますが、ご参
考まで。(隼人関係で読んでいたときにあったので。)


かたばみ
神仏習合での月神は知りませんが、日本古代文化の探求/隼人/大林太良編に隼人の月神信仰が書かれており、これが月読神社の母体になったと思われるとあります。
 現在の京都府京田辺市大住池平の月読神社(月讀神社)のことだろうと思います。
   ⇒マピオン地図神奈備さんのページ
(恋川亭さんの書かれてる田辺町大住郷の月読神社と同じと思います)
 大隅半島や薩摩半島では「お月さんの綱」をない、「綱で輪を作って木の上にかける」や綱引きをおこない、月の出を待って相撲のように四股を踏む所作の行事などがあるそうです。
 多くは八月の十五夜に行われ、子供達がカヤ(茅)の束を頭から被って踊ったり、薩南諸島では秋田のナマハゲに似た仮面を使う踊りもあるそうです。
 薩摩半島ではこの神をオツットドン(お月殿とある)と呼んで牛や稲作につながり、大隅半島では蛇、粟、芋とつながるそうです。
 綱引き行事に絞るなら、南九州と佐賀、長崎(壱岐)では八月ないし盆に行うことで共通し、小正月に行う別系と見える綱引きが熊本−大分−四国と九州を横断する形で分布するそうです。



------------------------------
玄松子>月読神社(京都市西京区)
         ⇒月読神社(長崎県壱岐市⇒マピオン地図


------------------------------

 壱岐島は伊邪那岐尊・伊邪那美尊が島生みのときに生みあげられた島。
「・・・。次、伊伎島、天比登都柱(あめのひとつはしら)。次、津島、天狭手依比売(あめのさてよりひめ)。・・・」
『新版ひふみ神示』P162)


------------------------------

 京都の神社風景/松尾梅宮編>月読神社 

------------------------------

公式サイト  松尾大社

京都市西京区嵐山宮町3
TEL::075-871-5016.
  
ご祭神】より
 大山咋神(おおやまぐいのかみ)は、古事記に〜〜〜
「大山咋神またの名は山末之大主神、此神は近淡海国の日枝山に座し、また葛野の松尾に座す鳴鏑を用ふる神なり」
とあり、山の上部(末)に鎮座されて、山及び山麓一帯を支配される(大主)神であり、近江国の比叡山と松尾山を支配される神であったと伝えられます。
 中津島姫命(なかつしまひめのみこと)は、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)の別名で、古事記に〜〜〜
「天照大神が須佐之男命が天安河を隔てて誓約された時、狭霧の中に生まれ給うた」
と伝えられる神で、福岡県の宗像大社に祀られる三女神の一神として古くから海上守護の霊徳を仰がれた神です。

御由緒】より
 当社は京都最古の神社で、
太古この地方一帯に住んでいた住民が、松尾山の神霊を祀って、生活守護神としたのが起源といわれます。
 五世紀の頃、朝鮮から渡来した秦氏がこの地に移住し、山城・丹波の両国を開拓し河川を治めて農林産業を興しました。
 同時に松尾の神を氏族の総氏神と仰ぎ、文武天皇の大宝元年(701年)には、山麓の現在地に社殿が創建されました。
 都を奈良から長岡京、平安京に遷されたものも秦氏の富と力によるものとされています。
 従って平安時代当社に対する皇室のご崇敬はきわめて厚く行幸数十度に及び、正一位の神階を受けられ名神大社二十二社に列せられて賀茂両社と並んで皇城鎮護の社とされました。

------------------------------
古墳のある町並みから名神大社二十二社参拝(一覧)松尾大社




 松尾大社インデックス
  松尾大社の摂社
【摂社・月読神社】〜左から引用
  御祭神は月読尊。日本書紀によれば、顕宗天皇の三年(437年)、阿倍臣事代という者が任那に使した時、神のお告げを受けたので、京に還ると天皇に奏上して、山城国葛野郡の荒樔田の地(桂川沿い、現在の上野辺付近)を神領として賜り、月読尊を祀る神社を創建し、壱岐県主・押見宿祢が神職として奉仕したと伝えています。押見宿祢の子孫が(卜部姓)代々神職として世襲しましたが、文徳天皇の斉衡三年(856年)に水害の危険を避けて、松尾山南麓の現在地に移り(文徳実録)ました。
 貞観元年(859)正二位、延喜六年(906)正一位勲一等の神階に進まれ、
延喜式では名神大社に列しています。全国屈指の名社ですが、当松尾大社の勢力圏内にあるため、古くからこの松尾大社の摂社とされてきました。 
 境内には聖徳太子社・御船社・月延石があります。
聖徳太子社は月読尊を敬祭された太子の徳を称えて祀ったとものといわれ、御船社は、天鳥船神を祭神とし、毎年神幸祭の前に渡御安全祈願祭を執行する末社です。月延石安産石とも称し、神功皇后が腹を撫でて安産せられた石を、月読尊の神託により、舒明天皇が伊岐公乙等を筑紫に遣わして求められ、当社に奉納されたという伝説(雍州府志)があり、古来安産の霊験を慕ってお参りされる人が多い神社です。

【摂社・櫟谷・宗像神社】


【西七条御旅所】


【末社・松尾総神社】
 御祭神は月読尊で、往古より松尾祭の還幸祭の道行きに際し、六基の神輿の御旅所とされて来ました。

【末社・三宮神社】


末社・衣手神社


 月読神社

京都府京田辺市大住池平31 



------------------------------



------------------------------
神奈備>月読神社 より


------------------------------
 神社空間2つの月読神社 より

  奈良県五條市の吉野川沿い阿田という土地がある。以前、そこを訪れた際、郷土史に明るい方から伺った話だ。阿田は、上代に隼人が南九州から移住し、住みついていたとされる土地であるが(「阿田」は、「阿多隼人」などと言う場合の「阿多」が地名転移したとされる。)、かってその人のところに鹿児島の隼人研究家を名乗る人から電話があり、「阿田きんぺんに月にまつわる伝承とか祭りはないか?」と、まずは聞かれたそうな。

 <<中略>>

 かって隼人たちが活動していた地域いったいには、月と密接に関わるような習俗や信仰の残されていることが多い。それは彼らに月を祀る習俗があったためであると考えられているのだが、その隼人研究家を名乗る人も、こうしたことを踏まえた上で、そんな質問をしてきたのだろう。

 それにしても、ことほどさように「隼人には月を祀る習俗があった。」と言う説はかなり定着している様子なのだが、この説はいったい何を根拠に言い出されたことなのか? 隼人のことは、断片的ながらも記紀をはじめ、『続日本紀』『延喜式』等にポツポツと記事が表れているが、その中にも、彼らに月を祀る習俗があったことを伝えるようなものは何もない。おそらく隼人にそうした信仰があったという説は、薩南諸島を含む鹿児島県全域から、熊本・宮崎の南部いったいに分布する、十五夜綱引や十五夜相撲といった習俗に関する、民俗学者の小野重朗の研究から言い出されたものらしい。

 これらの習俗は、(あとで説明するが)月と密接に関係するものである。そして、その分布圏は隼人たちの墓制とされる地下式横穴墓や地下式板石積石室墓が分布する範囲とわりとよく重複する。さらに、
京都府京田辺市の大住と呼ばれる土地は、阿田と同じく、上代に南九州から移入した隼人たちの居住した土地だが(「大住」は、「大隅半島」などに見られる「おおすみ」が地名転移したとみられている。)、ここには、月読神社や樺井月神社といった、月神を祀る式内社が複数ある。小野はこうした状況証拠を基に、隼人たちには月神を祀る信仰があったと考えたのである。

------------------------------
 神社空間鹿屋野姫と隼人たち より

 この大林の考察は、有名な言語学者の村山七郎から賛同を得ているが、そうなるとなかんずく熊襲と呼ばれた人たちはインドネシア系の言語をしゃべっていたことになる。いっぽう、隼人もまた、記紀にある海幸山幸の神話と同モチーフのそれがインドネシアに分布すること、『大隅国風土記』逸文にみられる隼人の語彙がマレイ語として解釈できること、褌(ふんどし)等の習俗もインドネシアに見られるものであること等から、その出自がインドネシア系ではなかったかとする説がある。この説は戦前から唱えられ、極めて有力なのだ。

 こうした説が正しいとすれば、熊襲と隼人は供にインドネシア系の言語をしゃべる同系の種族だったことになる。じっさい、熊襲とか隼人というのはほんらい、同じ種族で区別はなく、征服者である大和朝廷が、自分たちに対し反逆的な態度をとった支族を熊襲、従順であった支族を隼人、と勝手に呼び分けていたに過ぎない、という意見さえある。

 薪(たきぎ)神社




------------------------------


------------------------------
神奈備>薪(たきぎ)神社 より

 甘南備山と
  甘南備神社



------------------------------


------------------------------
神奈備>甘南備神社 より


------------------------------
 神社空間石牛と月 より

 ここで、樺井月神社の鎮座地周辺について説明しておく。
 樺井月神社は現在、城陽市に鎮座する水主神社の境内社となっている(水主神社は山城国久世郡の式内社)。だが、かってはすでに言ったように木津川の川中にあった洲の上に鎮座しており、たびたび洪水に見まわれたことから、現社地に遷ったらしい。旧社地は、水主神社と川を挟んで向かい合う綴喜郡の大住郷に属し、大和岩雄によれば、付近には現在でも樺井姓の人々が住み(このことは住宅地図でも確認できる。)、対岸にある当社の管理を続けていると言う。
 この大住郷には式内大社の月読神社という神社が鎮座している。社名からも明らかな通り、この神社も月神の月読神を祀る神社である。さらに、大住郷の西側には甘南備山という山があり、山頂には綴喜郡の式内社、
甘南備神社が鎮座しているが、当社の神宮寺に残る文書によれば、これまた月読尊を祀るものという。
 こうしてみると甘南備山の東に広がるこの大住郷には、月神を祀る式内社が、甘南備神社、月読神社、樺井月神社と、3社も鎮座することになる。全国的に見ても、あまり多いとは言えない月神を祀る式内社が、この地域にこれだけかたまっているのはなぜだろうか。
 大井神社
  亀岡市大井町


------------------------------
 神社空間爾佐(にさ)神社 の項より

 伊勢内宮の別宮となっている月読宮の祭神は月読尊だが、『皇太神宮儀式帳』によれば「御形は馬に乗る男の形にして、紫の御衣を着し、金作の太刀これを佩びる」という、 ── 妙に具体的な描写なので、どうやらかっての当社にはそのような神像があったのかもしれない。いずれにせよ月読宮の月読尊は乗馬姿であったことになる。

 長野県北佐久郡望月町望月に鎮座する大伴神社(祭神:月読尊・天忍日命)には、祭神の月読尊が「竜馬」に乗って海から千曲川を遡り鎮座したという古縁起がある。望月は有名な勅使牧である「望月の牧」があった場所で、上代に渡来系の技術者による馬の飼育が行われていた。この伝承も、こうしたことと関係がありそうだが、ここでは月神は単に乗り物に乗っていたというだけではなく、それに乗って川をさかのぼっている。

 これの類話が京都府にもある。
亀岡市大井町に鎮座する大井神社(祭神:月読尊・市杵島姫命・木股命)の伝承によれば、大宝二年(702)に当社の祭神の月読尊と市杵嶋姫命が、亀の背に乗って大堰川を遡ってきたが、途中、流れがきつくなってきたので、に乗り換えて鎮座したという。この伝承は、京都盆地の桂川流域にいた秦氏が、大堰川を遡って口丹波へと進出した事績とかんけいしているのかもしれないが、いずれにせよ、こうしてみると乗り物に乗った月神は、河川を遡上して内陸部を目指す習性があったらしい。月神を祀る神社には川辺に鎮座している(いた)例が多いのだが、これもこの習性と関係しているのか。

 いずれにせよ、月神には昔から何故か、乗り物に乗った姿で表象される傾向があった。これもまた月神が交通と関わっていることを感じさせることがらである。

 樺井月神社





------------------------------
 神社空間石牛と月 より

 ここで、樺井月神社の鎮座地周辺について説明しておく。
 樺井月神社は現在、城陽市に鎮座する
水主神社の境内社となっている(水主神社は山城国久世郡の式内社)。だが、かってはすでに言ったように木津川の川中にあった洲の上に鎮座しており、たびたび洪水に見まわれたことから、現社地に遷ったらしい。旧社地は、水主神社と川を挟んで向かい合う綴喜郡の大住郷に属し、大和岩雄によれば、付近には現在でも樺井姓の人々が住み(このことは住宅地図でも確認できる。)、対岸にある当社の管理を続けていると言う。
 この大住郷には式内大社の月読神社という神社が鎮座している。社名からも明らかな通り、この神社も月神の月読神を祀る神社である。さらに、大住郷の西側には甘南備山という山があり、山頂には綴喜郡の式内社、甘南備神社が鎮座しているが、当社の神宮寺に残る文書によれば、これまた月読尊を祀るものという。
 こうしてみると甘南備山の東に広がるこの大住郷には、月神を祀る式内社が、甘南備神社、月読神社、樺井月神社と、3社も鎮座することになる。全国的に見ても、あまり多いとは言えない月神を祀る式内社が、この地域にこれだけかたまっているのはなぜだろうか。

公的ウェブ
公式サイト


                             このページのトップに戻る



All Right Reserved (C) 月の光
tukinohikari@msn.com