5度の岩戸閉め、岩戸開き、建替え建直し、光の岸 月の光
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山口県の防府市・広島県厳島神社・出雲・鳥取県・岡山県

           出雲旅行に向けての整理

1.伊邪那美尊の黄泉国行き。

  和魂・幸魂・奇魂・荒魂に応じて伊邪那美尊の陵墓を設けたとすると4箇所あっても不思議ではないのかもしれない。さらに伊邪那美尊を尊報してこられてきた神人たちが伊邪那美尊の日用品を各々の近くに墓所として祭ったと推測すると陵墓と伝えられる数は相当のものに上るかもしれません。しかし、黄泉比良坂千引岩と比定されるようなところはそう数は多くないだろうと思います。

 本サイト「月の光」では、山形県の出羽三山を擁する庄内地方で平成7年11月26日(旧暦10月4日)の日の出から夜半にかけて
「那岐那美両神の千引の岩戸開き」が行われ、平成7年11月27日(旧暦10月5日)の午後、伊邪那岐尊と伊邪那美尊がようやく出会うことができた、ということを伝えました。
  (参照:月の光>探訪ノート私の物語の始まり千引の岩戸開き


2.素盞嗚(須佐之男)尊の八岐大蛇退治。

 高天原から追放された須佐之男命は出雲の地に到着し、八岐大蛇の退治を行うことになる。

 『秀真伝』では、八岐大蛇は「天照神(アマテルカミ)」の12后の一人である早子(竹子姫・湍子姫・田奈子姫の母神)に変じたものとして描かれている。

 また『霊界物語』(出口王仁三郎)の記述。
@ 
露国のあたりに天地の邪気が凝りかたまつて悪霊が発生した。これがすなはち素盞嗚命の言向和された、かの醜い形の八頭八尾の大蛇(をろち)の姿をしてゐたのである。この八頭八尾の大蛇の霊が霊を分けて、国々の国魂神および番頭神なる八王八頭の身魂を冒し、次第に神界を悪化させるやうに努力しながら現在にいたつたのである。
A しかるに一方
印度(いんど)においては、極陰性の邪気が凝りかたまつて金毛九尾白面の悪狐が発生した。この霊はおのおのまた霊を分けて、国々の八王八頭の相手方の女の霊にのり憑つた。
B  しかして、また一つの邪気が凝り固まつて鬼の姿をして発生したのは、
猶太の土地であつた。この邪鬼は、すべての神界並びに現界の組織を打ち毀して、自分が盟主となつて、全世界を妖魅界にしやうと目論みてゐる。

 天の大神は、最初に
天足彦(あだるひこ)胞場姫(えばひめ)のふたりを造りて、人体の祖となしたまひ、霊主体従の神木に体主霊従(ちしき)の果実を実らせ、『この果実を喰ふべからず』と厳命し、その性質のいかんを試みたまうた。ふたりは体慾にかられて、つひにその厳命を犯し、神の怒りにふれた。
 これより世界は体主霊従の妖気発生し、
神人界に邪悪分子の萠芽を見るにいたつたのである。

  ** ** ** ** ** ** ** **

 須佐之男命が退治された八岐大蛇の尻尾から出てきた天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)とは日本列島のことだと、私は神から聞いたことがある。8連邦制をとっていたムー大陸(八岐大蛇のかかった国)が神の怒りに触れ海中に没した時、ムー大陸の尻尾に相当する日本列島が沈没せずに残った。素盞鳴神がその島国をよく検分すると、実にしっかりした御魂が集っていた。素盞鳴神は日本とその御魂を天照大神に献じたものであるといわれた。そういう点からも日本は天照の国、日の出る国である。

 神話の捕らえ方・神の物語の捕らえ方には、宇宙規模で見る見方、太陽系レベルで見ていく見方、地球規模で見ていく見方、日本列島のレベルで見ていく見方などのそれぞれの見方が同時的に見られる見方が必要かな。



3.八束水臣津野(やつかみずおみつぬ)命の国引き神話。

    (那岐那美両神が未完に終えている国生みの補完事業)

 那岐那美両神の未完の国生みを国引によって補完せざるを得なかった事情に論及したものを読んだことがないので、「那岐那美両神の未完の国生み」を「国引」によって補完する必要の必然性に論及しえたのは、おそらく人としては私が最初なのかなと感じています。
 本サイト「月の光」では、山形県の出羽三山を擁する庄内地方で平成7年11月26日(旧暦10月4日)の日の出から夜半にかけて「那岐那美両神の千引の岩戸開き」が行われ、平成7年11月27日(旧暦10月5日)の午後、伊邪那岐尊と伊邪那美尊がようやく出会うことができた、ということを伝えました。
  (参照:月の光>探訪ノート私の物語の始まり千引の岩戸開き

 那岐那美両神の未完の国生みを国引によって補完せざるを得なかった事情は、時代が落ち着いてから主張する予定でいますが、千引の岩戸が開いた今となっては不必要かもしれません。

 那岐那美両神の国生みで完成せずに残っていた部分を完結させる御神業が、この世においてもいよいよ本格化します。



4.大国主命の2度にわたる蘇生と豊葦原の瑞穂の国の平定。



5.大国主命の国譲り神話。




6.付録 〜 出雲の神在月(神有月)

  神在月まめ知識からの引用

神々は出雲のどこに集うのか?

一ヶ所の神社に集まるのではなく何ヶ所かの神社を参集して回るとのこと。
出雲大社や佐太神社を中心として、繋がりを持っている神社は以下の通りである。
・朝山神社(出雲市朝山町)
・出雲大社(簸川郡大社町)
・万九千(まんくせん)社(簸川郡斐川町)
・神原神社(大原郡加茂町)
・神魂(かもす)神社(松江市大庭町)
・佐太神社(八束郡鹿島町)
・朝酌下神社(松江市朝酌下町)
(旧暦10月1-10日)
(11-17日)
(17-26日)
(10-26日)
(11日)
(11-16、20-25日)
(25日)
このほか、この期間中に単独で神在祭を行う神社もある。
・日御崎神社(簸川郡大社町)
・熊野大社(八束郡八雲村)
・六所神社(松江市大草町)
・売豆紀(めづき)神社(意宇郡松江)

神在月に出雲に集まらない神々もある?
神在月に出雲に集まらない神様もいるにはいる。それが留守神である。結構この留守神伝承は各地に広がっている。特にエビス、釜神、金毘羅、亥の子を留守神とする地域が多い。エビスは関東、東海地方、釜神は関東地方、金毘羅は中国四国地方を中心に分布している。このような留守神はいわゆる神社という形で祭られる祭神ではないという特徴を持つ。ただし地域によってはこれらの神々も出雲に参集するとしているところもある。





 (参考〜出雲関係の全般を扱っているサイトへのリンク)


  『秀真伝』天の巻 第九綾 ソサノオの八岐(やまた)の大蛇(おろち)退治と出雲建国の歌
  『秀真伝』天の巻 第十綾 大国主、出雲を譲る
     (※)『秀真伝』
  神社・仏閣(松江周辺)
  古代の出雲を歩く
  出雲国神仏霊場
  出雲旅行記(1) ・ 出雲旅行記(2)
  邪馬台国の会>第200回
  古代史の復元
  山陰観光案内
  山陰観光地リスト



  出雲の5つの階層
 1.伊邪那美尊の黄泉国行き
花の窟
三重県熊野市有馬町 伊邪那美尊がなくなられたところ。
神奈備

産田(うぶた)神社
三重県熊野市有馬町
産田(うぶた)神社
熊野街道
神奈備

比婆山久米神社

比婆山久米神社奥宮
島根県能義郡伯太町(はくたちょう)横屋 『古事記』によれば伊邪那美尊は火の神を生んだ後に亡くなり、「出雲国と伯耆国とのさかいの比婆山に葬られた」という。この比婆山の有力な候補地が、伯太町峠之内にある比婆山と考えられている。 伊邪那美尊関連伝承地図
安来市観光サイト

井尻点描
古事記の地を訪ねて

神納山の岩坂御陵
(比婆山)
島根県八束郡八雲村日吉の神納山(かんなやま) 比婆山 八雲村ホームページ観光案内
八雲比婆山NO1

比婆山 広島県比婆郡西城町  ブナの森を登り切ると御陵(1256m)の平坦な山頂に出る。御陵にはイザナミノミコトの陵墓として伝えられる巨石が祀られ、一帯は「比婆山伝説地」として広島県の史跡に指定されているそうだ。
〜右の「比婆山」の説明から引用。
広島県の古代遺跡」の中ほどに記載
比婆山

佐太神社(比婆山)
島根県八束郡鹿島町  佐太神社境内にある御陵墓(比婆山) 八百万の神々がお集りになり いざみの命が亡くなられたことを悼んで 御忌祭をされる神社の辺りに御陵墓が有ることは有り難いがこれにも異説がある。
〜右の「古事記の地のご案内」の説明から引用。
古事記の地のご案内
伊萬太千(いまたち)
佐太神社
玄松子1
玄松子2

出雲国神仏霊場
剱神社 島根県八束郡八雲村日吉 神納の御陵さんから続いている丘陵によって、日吉・岩坂平野と意宇平野に分けられていますが、この丘陵の東の端に剱神社があります。神話に
「女神イザナミノミコトを失った男神イザナギノミコトは、あきらめきれず黄泉の国まで行ったが、みにくい姿をみて逃げた。黄泉の国の軍勢に追われた男神は剱を打ち振って防がれたので、
剱山という。」
とあります。
〜右の「八雲村ホームページ観光案内」の説明から引用。
八雲村ホームページ観光案内
倭国大乱 黄泉国神話
八雲比婆山



揖夜神社 島根県八束郡東出雲町揖夜字宮山2229 風土記は伊布夜社の社名を記すだけですが、この社名は他の伝記にたびたび出てきます「古事記」は「イザナギが黄泉国の軍団を振り切った黄泉比良坂(よもひらさか)は出雲の伊賦夜坂(いふやさか)のこと」と記し「日本書紀」
「斉明天皇の時代、犬が死人の手を言屋社(いうやのやしろ)に置いた、天皇崩御の前兆だ」と記しています。
 大和朝廷は伊布夜社を「黄泉国」への入り口と位置付け、怖い社にしていたようです。
 またここには美保神社のエビスさまの恋の物語も伝承されています。
〜右の「出雲風土記」の説明から引用。
出雲国風土記
玄松子
管理人が行く

黄泉比良坂 島根県東出雲町揖屋 伊奘諾尊が亡くなった伊奘冉尊を慕って黄泉の国を訪ねて行ったその入り口が黄泉比良坂と伝えられており、古事記ではこの地を出雲の国の「伊賦夜坂(いふやざか)」であるとしている。
〜右の「神楽の散歩道」の説明から引用。
神楽の散歩道
倭国大乱 黄泉国神話
黄泉比良坂


千引の岩 島根県八束郡東出雲町揖屋  神代の史跡または言い伝えの場所は同じものが方々にある。
 それぞれに考察はされているが、千引きの岩も
東出雲町広島県の比婆山の近く立烏帽子山の中腹のにある。
〜右の「神の別れの地 黄泉比良坂」の説明から引用。
神の別れの地 黄泉比良坂
猪目洞窟 平田市猪目町 『風土記』では黄泉の入り口を出雲国の西部、出雲郡宇賀郷の北ツ海に面したところに置き「磯より西の方に窟戸あり、高さと広さ各六尺ばかりなり。窟の内に穴あり。人、入ることを得ず。深き浅きを知らざるなり。夢に此の磯の窟のほとりに至れば必ず死ぬ。故、俗人、古より今に至るまで、黄泉の坂、黄泉の穴と號く」と書き記す。
〜右の「出雲の古代を歩く」の説明から引用。
出雲国く風土記
管理人が行く
出雲の古代を歩く
平田レーダー事務所

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 2.素盞嗚(須佐之男)尊の八岐大蛇退治
産田(うぶた)神社
産田(うぶた)神社
 地元に伝わる口伝には「崇神天皇の夢見により、ここにお祭りされていた神様を熊野に遷したのが、熊野本宮大社の始まりだという。」確かに、江戸時代までは、産田神社と熊野本宮大社では、同じ巫女舞が伝承されていたという。
〜右の「神奈備」の説明から引用。

 
神奈備
紀州熊野大社
紀州熊野大社
 末っ子のソサノオは、母への甘え足りない思慕の情が募るほどに宮中での乱暴が過激になり皆を困らせていました。息子の悪戯(わるふざけ)に心労が絶えない母イサナミは、何とかソサノオのオエクマ(汚穢・隈、汚れ禍い)を祓い除こうとクマノ宮(現・和歌山県、熊野本宮大社)を建てて神に祈る毎日でした。
〜右の「秀真伝」の説明から引用。
『秀真伝』天の巻 第九綾
神奈備
玄松子

船通山
船通山
船通山
出雲横田町
船通山

十握剣
十握剣
伝承を総合すると、八岐の大蛇を退治した素盞鳴尊の十握の剣は、
出雲(簸の川上)⇒備前(石山布都魂神社)⇒大和(石上神社)
という流転を経たことになる。
〜右の「邪馬台国の会>第203回」の説明から引用。



 岡山県和気郡熊山にある戒壇は、神素盞嗚大神様の御陵である。
 【略】
 素盞嗚大神は八頭八尾の大蛇を御退治なされてのち、櫛稲田姫と寿賀(すが)の宮に住まれた。
 尊百年ののち、出雲の国のうち最上清浄の地を選び、御尊骸を納め奉った。これ備前
熊山である。大蛇をき断られた十握の剣も同所に納まっているのである。
 かの日本書紀にある「素盞嗚尊の蛇を断り給える剣は今吉備の神部の許にあり、云々」とあるが、
熊山のことである。
【略】
 ちなみに熊山の麓なる伊部町は伊部焼の産地であるが、
大蛇退治に使用されたる酒甕はすなわちこの地で焼かれたものである。伊部(いんべ)は忌部(いみべ)の義であり、斎部(いつきべ)の意である。
〜『三鏡』(出口王仁三郎、p134)から引用。




邪馬台国の会>第203回





『三鏡』(八幡書店)






天叢雲剣
(草薙の剣)
天叢雲剣
 天叢雲剣は、
八岐大蛇(出雲の国の鳥上の峰)⇒須佐之男命(出雲)⇒天照大御神(高天原)⇒邇邇芸命(南九州)⇒神武天皇以下の諸天皇(畿内大和)⇒豊鍬入姫命(大和の笠縫邑)⇒倭姫命(伊勢)⇒倭建命(東国遠征)⇒美夜受比売(尾張)⇒熱田社(熱田)⇒僧道行(新羅?)⇒天皇(宮中)⇒熱田社⇒水無神社(飛騨一ノ宮)⇒熱田社(熱田)
と動いている。まことに数奇な流転である。
 そして、神話の世界の由緒ある剣の実物が、現代に伝わっているということも、驚くべきことである。神話の信憑性について検討するときには、この事実も考慮に加えなくてはならない。
 なお、宮中にあって伝来したもの(崇神天皇の時代につくられたレプリカといわれたもの)は、鉄刀であって、1185年(寿永4年)に、安徳天皇とともに、壇の浦に沈んだ。その後別の剣をもってこれにかえたのである。
〜右の「邪馬台国の会>第203回」の説明から引用。
邪馬台国の会>第203回
稲田神社
稲田神社

[稲田神社 いなたじんじゃ]
 足名稚命、手名椎命の夫婦は長者原の長者屋敷と云う所に住んでいた、そして横田郷に五反田、八反田を開墾した。この開墾した地で稲田姫を生んだと伝えられ、その地に神社が祀られた。稲田姫の誕生の地と伝えらる神社の傍らに「産湯の池」と呼ばれる小さな池がある。
〜右の「奥出雲の地名と伝承第6章」の説明から引用。

【ちなみにこういう意見もある】
 仁多横田町の稲田神社が稲田姫の生誕地だと記しているが、この「稲田神社」は古社ではなく、明治期ここの出身者で北九州で一儲けした何とかという人(名前を忘れた)が寄進した神社である。
 今は立派な神社であるが、それ以前は、小さな祠があっただけで、祭神も不明であった。
 付近の稲田という地名(現社地から1キロ程度離れている)からの付会で稲田神社とされただけである。
〜右の「批判」の説明から引用。

 ただこういう何気ない「小さな祠」が、本当の真実を伝えていることもあるのではないか?
〜これは私(月の光)の感想。

奥出雲の地名と伝承 第6章
原田常治著「古代日本正史」批判

伊賀武神社
(摂社の八重垣神社が松江の八重垣神社の元宮といわれる)
島根県仁多郡大字佐伯116

[佐白の八重垣神社 さじろのやえがきじんじゃ]
 須佐之男命が八俣の大蛇を退治して後に、この地で稲田姫と結婚したと伝えられ、八重垣神社が祀られた。
 近くには、長者屋敷と呼ばれる所があり、
足名椎手名椎が住んでいたと伝えられている。
 付近に八俣の大蛇に関係する地名が数多くあり、大蛇が住んでいた大蛇池、八頭坂、大蛇が出て来る時、大波が起こったと云われる波越坂、大蛇が休んだ八頭瀑、大蛇が火を吹いた火の谷などがある。

[稲田姫の元結掛けの松 もとゆいかけのまつ]
 佐白の八重垣神社のそばに、稲田姫が元結を掛けた松がある。
[泉谷の鏡ヶ池 いずみだにのかかみがいけ]
 稲田姫がこの池を鏡に見立てて髪を梳いたと伝えられている。また、須佐之男命が八俣の大蛇を退治する時、この池の水で毒酒を作ったとも伝えられている。 
 この泉の水は、どんな日照りが続いても渇いたことがないという泉である。

〜右の「奥出雲の地名と伝承第6章」の説明から引用。

 境内に八重垣神社があります。元来スサノオノミコト(須佐男命)の大蛇退治に縁深い佐白地内の八頭(やと)に鎮座してあったものですが、明治40年に本社境内に移転しています。
〜右の「佐白 伊賀武神社」の説明から引用。

奥出雲の地名と伝承 第6章
神奈備
佐白 伊賀武神社

八重垣神社
八重垣神社
 この八重垣神社は出雲風土記に記述のない神社なのである。
 出雲風土記の「佐久佐神社」が八重垣神社であるかのようにみえるが、「
佐久佐神社」は現松江市大草町の「六所神社」である。佐久佐神社の元社地は、出雲国庁跡地に当たり、それ故、合祀され、名前が変わったのである。
 国宝が所蔵されている現
八重垣神社は、かなり立派な神社であるが、斐伊川や須賀神社との地理的関係から考えて稲田姫の伝承を伝える神社としては無理がある。
 本来の出雲古社ではなく、893年宇多天皇期に出雲国庁造営の際、、熊野大社や出雲大社に代わる神社として創建された神社であると考えられる。それ故位階も高いのであろう。
 稲田姫を素戔嗚尊がかくまった場所については、木次町に古伝承がある。
〜右の「批判」の説明から要点を引用。
原田常治著「古代日本正史」批判
玄松子
山陰観光地案内
出雲国神仏霊場

天が淵
天が淵

[天が淵 あまがふち]
 湯村地区を流れる斐伊川に「天が淵」という所がある。この淵は「ヤマタのオロチ」が隠れ住んだ所と伝えられ、須佐之男命と戦ってこの淵の中に逃れたとも伝えられている。

わたしたちの斐伊川天が淵
奥出雲の地名と伝承 第6章
斐伊神社
斐伊神社
斐伊神社

玄松子
出雲旅行記(2)
出雲の古代を歩く
地域のご紹介


八本杉
八本杉
八本杉
地域のご紹介


大 山
大山
 天気清朗空には一点の雲影もなく、日本最初の山嶺と称へられたる伯耆大山は、白雪の頭巾をいただき高麗山を圧して聳え立ち、神素盞嗚大神が、八岐大蛇の憑依せる印度(ツキ)の国ハルナの都に暴威を振ひて、天下を体主霊従的に混乱せしめつつありしその曲業を悔悟せしめ、地上に天国を建設せむと、数多の三五教の宣伝使を派遣し、厳の言霊をもつて言向和さむとしたまひし時、大黒主(おほくろぬし)は風を喰つて印度(ツキ)の都を九十五種外道を引率し、遠く海を渡りて淤能碁呂嶋の要なるこの大山(だいせん)に姿を隠し、暴風雨を起こし妖邪の気を放射して人畜を苦しめたるを、大神は自ら数多の天使や宣伝使を率ゐて安く来たりまし、天下の災害を除き、天の叢雲の剣を獲て、これを高天原に坐します天照大御神に献り、清浄無垢の大精神を、大神ならびに天神地祇八百万神および天下万民の前に顕はし玉ひし、霊界物語にとつてもつとも由緒深き神山(しんざん)を朝夕うちながめ、ノアの方舟なす口述台に横たはりつつ、四月一日より本日正午にかけ、真善美愛の戌の巻〈五十九巻〉を編著しをはりたり。
〜『霊界物語』第59巻 真善美愛 戌の巻 序
『霊界物語』
第59巻 真善美愛 戌の巻 序
『霊界物語』電子ブック
大神山神社奥宮
大神山神社奥宮
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松江城と周辺観光地案内
玄松子


大神山神社本社
大神山神社本社
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須我神社
須我神社
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神社仏閣(松江周辺)
山陰観光地案内
出雲国神仏霊場
大東町観光案内

出雲熊野大社
熊野大社
熊野大社
熊野大社(公式サイト)
神社仏閣(松江周辺)
玄松子
み熊野ネット

須佐神社
須佐神社
須佐之男命の終焉の地。
神社仏閣(松江周辺)
山陰観光案内
玄松子
出雲市佐田町観光情報

日御碕神社
日御碕神社
日御碕神社
大社町観光
古代であそぼ
布忍(ぬのせ)神社
伊萬太千(いまたち)
玄松子
神奈備
出雲神仏霊場

熊山遺跡
岡山県和気郡熊山
 岡山県和気郡熊山にある戒壇は、神素盞嗚大神様の御陵である。
 古昔、出雲の国と称せられたる地点は、近江の琵琶湖以西の総称であって、素盞嗚大神のうしはぎ給うたと地である。湖の以東は、天照大神様の御領分であった。
 このゆえに誓約は、その中央にある天の真名井、すなわち琵琶湖で行われたのである。
 出雲の国というのは、いずくもの国の意にて、けっして現今の島根県に限られたわけではないのである。
 素盞嗚大神は八頭八尾の大蛇を御退治なされてのち、櫛稲田姫と寿賀(すが)の宮に住まれた。
 尊百年ののち、出雲の国のうち最上清浄の地を選び、御尊骸を納め奉った。これ備前
熊山である。大蛇をき断られた十握の剣も同所に納まっているのである。
 かの日本書紀にある「素盞嗚尊の蛇を断り給える剣は今吉備のの神部の許にあり、云々」とあるが、熊山のことである。
【略】
 ちなみに熊山の麓なる伊部町は伊部焼の産地であるが、
大蛇退治に使用されたる酒甕はすなわちこの地で焼かれたものである。伊部(いんべ)は忌部(いみべ)の義であり、斎部(いつきべ)の意である。
〜『三鏡』(出口王仁三郎、p134)から引用。
吉備の国探訪
ぶらり見てある記



『三鏡』(八幡書店)
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 3.八束水臣津野(やつかみずおみつぬ)命の国引き神話。
長浜神社 島根県出雲市西園町上長浜4258  国引き神話で有名な八束水臣津野命は
 「出雲の国は細長い布切れのような国だなあ・・・。最初に国を小さく作りすぎてしまった。だから作り足して大きくしよう」と言われ、国引きを決心されました。
 どこかに継ぎ足して縫い合わせられるような土地はないかと眺めてみると
 「朝鮮半島の新羅の岬に余った土地があるぞ」と見つけられ、「国来い」と引き寄せて縫い合わせていかれました。
 こうして出来た土地は
島根半島の西端の杵築の岬の一帯です。この土地をつなぎとめるために立てた杭は三瓶山です。また引いた綱は長浜がそれです。
 さらに、
佐太の国闇見の国美保の岬を作られ、4回にわたる国引きを終えられました。
 その後、人々は出雲の国の総鎮守として、国引きの神とその后神・御子神を長浜の妙見山に祭りました。
〜右の「長浜神社」の説明から引用。
出雲国神仏霊場
長浜神社
出雲国風土記の国引き神話
出雲国の村々



三瓶山
 八束水臣津野命(やつかみづおみつぬのみこと)は新羅国(韓国の西半部)の余った土地を、「薗の長浜」を綱にして引いて来ました。その綱をつなぎとめた佐比賣山(三瓶山)です。
〜右の「支豆支の御埼」の説明から引用。
支豆支の御埼
稲佐の浜
 八束水臣津野命(やつかみづおみつぬのみこと)は新羅国(韓国の西半部)の余った土地を、「薗の長浜」を綱にして引いて来ました。その綱をつなぎとめた杭は佐比賣山(三瓶山)です。
〜右の「支豆支の御埼」の説明から引用。
支豆支の御埼

八穂米支豆支野御埼(やほしねきづきのみさき)
支豆支(きづき)の御埼」は出雲市小津浦から西の、島根半島西端にあたります。  八束水臣津野命(やつかみづおみつぬのみこと)は新羅国(韓国の西半部)の余った土地を、「薗の長浜」を綱にして引いて来ました。その綱をつなぎとめた杭は佐比賣山(三瓶山)です。
〜右の「支豆支の御埼」の説明から引用。
支豆支の御埼
出雲国の村々

狭田の国(さだのくに) 「狭田国」は松江市鹿島町西部から出雲市小津にかけての範囲と考えられています。 八束水臣津野命(やつかみづおみつぬのみこと)は「北門(きたど)の佐伎(さき)国」に国のあまりがあったので、引っぱってきて縫い合わせました。
〜右の「狭田の国」の説明から引用。
狭田の国
出雲国の村々
闇見の国
東は松江市手角町から、西は松江市鹿島町東部がその範囲です。
「北門(きたど)の良波(よなみ)国」に余分な土地があったので、引いてつなぎ合わせたのが「闇見の国」です。東は松江市手角町から、西は松江市鹿島町東部がその範囲です。松江市新庄町に「クラ見谷」、「久良弥神社」の名前があり、「闇見の国」の存在を現代に伝えています。
 「北門」は北方の意味ですが、「良波国」はどこに当たるのかわかっていません。
〜右の「狭田の国」の説明から引用。
闇見の国
出雲国の村々
久良弥神社
島根県松江市新庄町994   上の説明の久良弥神社。 玄松子
加賀神社
加賀神社
加賀神社
伊萬太千(いまたち)
古代の出雲を歩く

三穂の三崎
「三穂の三埼」は島根半島の東端で、現在の松江市美保関町から松江市手角町にかけての地域です。
 八束水臣津野命(やつかみづおみつぬのみこと)は「高志(こし)の都都(つづ)の三埼」(石川県の能登半島)に余った土地があったので、「夜見嶋」(弓ケ浜)を綱にし、「火神岳(ひのかみだけ)」(大山)につなぎとめて引いてきた、という内容が書かれています。
〜右の「三穂の三崎」の説明から引用。
三穂の三崎
出雲国の村々

美保神社
島根県松江市美保関町美保関 美保神社
古代であそぼ
布忍(ぬのせ)神社
伊萬太千(いまたち)
玄松子
松江市の周辺と観光案内

弓ヶ浜
 八束水臣津野命(やつかみづおみつぬのみこと)は「高志(こし)の都都(つづ)の三埼」(石川県の能登半島)に余った土地があったので、「夜見嶋」(弓ケ浜)を綱にし、「火神岳(ひのかみだけ)」(大山)につなぎとめて引いてきた、という内容が書かれています。
〜左の「三穂の三崎」の説明から引用。
三穂の三崎
夜見嶋

粟嶋神社 弓ヶ浜
弓ヶ浜
弓ヶ浜
大山
 八束水臣津野命(やつかみづおみつぬのみこと)は「高志(こし)の都都(つづ)の三埼」(石川県の能登半島)に余った土地があったので、「夜見嶋」(弓ケ浜)を綱にし、「火神岳(ひのかみだけ)」(大山)につなぎとめて引いてきた、という内容が書かれています。
〜右の「三穂の三崎」の説明から引用。
三穂の三崎
火神岳

大神山神社奥宮
鳥取県西伯郡大山町大山 大神山神社奥宮
公式サイト
松江城と周辺観光地案内
玄松子

大神山神社本社
大神山神社本社
大神山神社本社
公式サイト
松江城と周辺観光地案内
玄松子

六所神社
六所神社
六所神社
六所神社
玄松子

意宇の杜
意宇の杜
意宇の杜
八束水臣津野命
出雲国府

阿太加夜神社
八束郡東出雲町出雲郷
境内には「出雲国風土記」に記す「意宇の杜」と伝承する「面足の丘」がある。 島根観光ナビ
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 4.大国主命の2度にわたる蘇生と豊葦原の瑞穂の国の平定。
大国主命
概略
概略
大国主命
神産巣日神
神無月特集(6)大国主神
溶岩流出?
大国主の通婚範囲

白兎神社
鳥取県鳥取市白兎
白兎神社
白兎神社
売沼神社
鳥取県鳥取市河原町曳田字上土居169
売沼神社
玄松子
赤猪岩神社(要害山)
鳥取県西伯郡会見町寺内字久清
大国主神が兄神たちから、焼けた石を赤い猪とだまされて抱きしめ、命を落とした。その場所にたてられた神社。
〜左の「赤猪岩神社崎」の説明から引用。
要害山(赤猪岩神社)
赤猪岩神社

第二の遭難地
第二の遭難地〜不明
第二の遭難地〜不明
第二の遭難地〜不明
大国主神社
和歌山県紀の川市
貴志川町國主1

 紀伊続風土記によれば、八十神等の危難から逃れ、五十猛命のもとへ赴こうとした大国主命が当地を訪れた事を由緒としている。*1 この説話は古事記では母の神が大国主命を紀の国の大屋毘古の神のもとに逃がしたとある。
 五十猛命と大屋毘古命を同一神とする見方があるが、京都の八坂神社の八御子神の中に五十猛命と大屋毘古命は別の神としてカウントされている。元々別の神であったのがいつの間にか同一神とされたのであろう。
〜右の「神奈備」の説明から引用。
神奈備
伊太祁曽神社
和歌山県和歌山市
伊太祈曽558
大国主の母神は、息子をかくまってもらうために紀(木)の国に住む『おおやびこ』という木の神のところに逃がしました。おおやびこは、いざなぎといざなみが、おのころ嶋でお産みになった神様です。
 執念深い兄たちはこのことを知り、探し追い、ついに紀の国に隠れているおおあなむぢを見つけだしました。兄たちはそれぞれ矢をつがえ、周囲からせまってきます。
 木の神おおやびこは、すぐに、おおあなむぢを『根の国』に通じている木の俣(大木の根元にぽっかりと開いた大きな穴)よりくくりぬけさせて逃がし、その後ろ姿に向かって、
「須佐之男命のいらっしゃる根の国に行きなさい!必ずよいように計ってくれるでしょう!」
と大声で助言されたのでございます。
(中略)
このようなわけで、木の神おおやびこは、大難よけや命を守る神(紀の国の祖神)として、和歌山県の伊太祁曽(いたきそ)神社に祀られています。
〜右の「御神木の大杉について」の説明から引用。
伊太祁曽神社
御神木の大杉について


根の堅州国
根の堅州国
■根の堅州国(ねのかたすくに)はどこか?
 須佐の男の命の住む国。『古事記』で須佐の男の命は「死んだ母(伊邪那美の命)の国である根の堅州国に行きたい。」と言っている。『日本書紀』では伊弉諾(いざなぎ)の尊が「お前の所行は、はなはだ無頼である。したがって、天上に住むべきではない。また、葦原の中国(あしはらのなかつくに)にいるべきでもない。すみやかに、底つ根の国へ行け。」と言った。
 これによると、根の国は、葦原の中国のなかに含まれない。葦原の中国は出雲方面とみられるが、根の国はさらに、その東のようにみえる。そして葦原の中国と根の国とのさかいが、黄泉比良坂(伊賦夜坂)と考えられていたようである。
 吉田東伍氏は、『大日本地名辞典』のなかで、

  ・「黄泉」と、島根の東側にある「夜見島」との関連
  ・島根の「根」と、根の国の「根」との関連
を指摘して、「根の国」と「島根郡」とは、関係があると見る。
 大ざっぱにいって、
出雲の国の西の部分にあたる出雲郡のあたりが、葦原の中国の中心地域出雲の国の東の部分の島根郡から、伯耆の国の夜見島にかけてのあたりが、根の国、黄泉の国となりそうである。
〜右の「邪馬台国の会>第201回」の説明から引用。
邪馬台国の会>第201回
三屋神社
島根県雲南市三刀屋町給下字宮谷865
 当社は島根県飯石郡三刀屋町大字給下宮谷に御鎮座の式内社であり出雲国風土記に御門屋社として神祇官に在りと記された古社である。古来から郡内の筆頭に置かれ上下の崇敬を受け累代の祠官は常に幣頭を務めて来た家柄である。社号の由来は所造天下大神大穴持命が八十神を出雲の青垣山の内に置かじと詔ふて追ひはらひ給ふてから此処に宮居を定め国土御経営の端緒を御開きになったのでその御魂が高天層に神留りましてから後出雲国造の祖先の出雲臣や神門臣等が此地に大神の御陵を営み、また神社を創建してその御神地を定め神戸を置いて大神の宮の御料を調達することになったので社号を大神の宮垣の御門とその神戸とに因んで御門屋社と号けたものである。出雲国内に於て大神の神地と神戸が風土記撰上当時に置かれた場所は此の地のみで他に一ヶ所も無いのみならず神の御門と神戸とを社号とした神社が全国に他には一社もないことは特記に値することであり、此の地が出雲文化の発祥の地であることは明らかである。
〜右の「玄松子」の説明から引用。
玄松子
出雲大社
出雲大社
■宇迦の山(うかのやま)
 大穴牟遅(おおなむじ)の神(大国主の神)が、須佐の男の命の娘である須勢理姫(すせりひめ)と仲よくなり、須佐の男の命が出す試練を切り抜けて、須勢理姫をつれてかけおちをした時、須佐の男の命が、根の堅州国から、追いかけていって、黄泉比良坂(伊賦夜坂)まで来たときに、逃げる大国主の命たちに、「宇迦の山のふもとに、宮殿をたてて住め」といったという。
 『出雲風土記』の出雲郡の条に、宇賀郷や、宇加の社の記載がある。宇迦は、古くからある地名であり、現在の、出雲大社近辺の地名である。
 「根の堅州国」は、伊賦夜坂をさかいにして、宇加の山の反対側にあるとみられる。
『古事記』『日本書紀』の記述によると、「根の堅州国」は「黄泉の国」と重なり合うような記述になっている。
〜右の「邪馬台国の会>第201回」の説明から引用。
出雲大社
邪馬台国の会>第201回

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 5.大国主命の国譲り神話。
出雲大社
出雲大社
出雲大社
公式サイト

天忍穂耳命
(あめのおしほみみのみこと)
天の浮橋に立って地上を観察
天穂日神
(天菩比神)
高天原からの第一の使者
能義神社
能義神社
 現出雲大社宮司は、千家(せんげ)・北島家であるが、これらは天神系の天穂日の子孫であるという。
 しかし、以前においては、この出雲国造を務めて来た両家より、足名椎・手名椎の子孫とされる須佐神社大宮司家の方が、国津神系として出雲では格式は上であり、代々「出雲太郎」を名乗ってきていたのである。
 (1430年代以降は「雲太郎」と改称し、明治期よりは須佐氏に改姓)
 これは、
天穂日命が出雲で最初に降臨した神社である「能義神社」が今はかなり荒れ果てている事と無関係ではない。
〜右の「批判」の説明から引用。
原田常治著「古代日本正史」批判
伊萬太千(いまたち)
神社・仏閣(松江周辺)
玄松子
出雲の古代を歩く

神魂神社
神魂神社
神魂神社
伊萬太千(いまたち)
玄松子
山陰観光地案内
出雲旅行記(1)


天若日子
高天原からの第二の使者

 天之麻迦古弓(あめのわかこゆみ)・天之波波矢(あめのははや)とを賜り、地上に向った。
しかし、天若日子も大国主の子、下照比売(したてるひめ)を娶ると、住み着いてしまい、八年たっても復命しようとしなかった。

天若日子
 出雲での天若日子の滞在地はどこだったのだろう?
 あまり気にしなくともいいかな、今回は。
雉鳴女
天若日子へ伝令

 高天原は雉鳴女(きじのなきめ)を伝令に出すことにした。
経津主神
経津主神
経津主神
経津主神
建御雷神
建御雷神
建御雷神
建御雷神
稲佐の浜
稲佐の浜
稲佐の浜
稲佐の浜
事代主
事代主
事代主
事代主
美保神社
美保神社
美保神社
美保神社
建御名方
建御名方
建御名方
建御名方
岩木山神社
青森県中津軽郡
【大己貴命の国替え。】
 タカミムスビが今度の不祥事に至った原因を度々問い正した時も、オオナムチは誠意を尽くして素直に答え、それはいちいち理にかなって同情に値するものであったので情状酌量により、アマテル神の詔のりによりこの件は
国替えと決まりました。この時正式にツガル、アソベのアカル宮(現・岩木山神社、祭神 顕国魂 うつしくにたま神、オオナムチの別名、中津軽郡、青森県)を天恩(アフユ)により賜り、後に供の百八十神と力を合わせてツガルの国を再開発して良田を広げ再び豊かな国造りを成しとげました。
〜右の「『秀真伝』天の巻第十綾」から引用。

『秀真伝』天の巻十綾

玄松子

アカル・アソベのウモト宮
ツガルの国
天日隅・阿曽部岳の大元宮。大己貴命はここで神上がる。
〜右の「『秀真伝』天の巻第十綾」から引用。
『秀真伝』天の巻十綾
大己貴の子・奇彦
事代主
タカミムスビから大己貴の子の奇彦にお言葉がありました。
 「汝、物主クシヒコよ。もし自国(出雲)の女性を娶(めと)る様なら国政に疎(うと)くなってしまうだろう。我が娘の
ミホツ姫(三穂津)を汝の妻として八十万の神々を司り、御孫(みまご)ニニキネを守護して奉れ」。
〜右の「『秀真伝』天の巻第十綾」から引用。

大己貴命と竹子姫(竹生島神)の子である奇彦は「エビス」さんとして親しまれている神であるし、奈良県の
三ノ輪山の神であるし、日本大国魂神といわれた神である。
〜私(月の光)の追記。
『秀真伝』天の巻十綾
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6.付録 〜 出雲の神在月(神有月)  ⇒  神在月まめ知識
出雲大社
(11-17日)
 神無月は出雲では神在月だが、その祭事は出雲大社だけではなく佐太神社でも行われることは先に書いた(「出雲大社と神無月」)。確かに神々が参会されるのは両社なのだが、出雲では神々が両社に行かれるとき、または帰られるときに立ち寄られるとする神社が6社あると伝えられているという(古代出雲文化展図録・1997年、「出雲神在祭の成立」)。その6社とは、西部では出雲市の朝山神社、大原郡加茂町の神原(かんばら)神社、簸川郡斐川町立虫(たちむし)神社境内の万九千(まんくせん)社、東部では松江市大庭町の神魂(かもす)神社、雑賀町の売豆紀(あずき)神社、朝酌町の朝酌下(あさくみしも)神社である。
 そもそも神無月あるいは神在月については、12世紀初の文献で神々の行かれる先が「出雲国」とされ、特定の神社に限られていなかった行き先が、14世紀には
佐太神社と特定され、さらに下って戦国時代(15世紀ころ)には出雲大社に変わって今日に至っているらしい。
〜右の「WR2101出雲の神在月」から引用。


10日の夜、神迎えとして近くの海岸「稲佐の浜」にて儀式が行われる。
カガリ火が焚かれ、注連縄が張り巡らされた斎場の中には、神の依代となるひもろぎが2本、傍らにその先導役となる龍蛇神(海蛇)が海に向って配置される。
神職が入場して修祓の後、神迎えの祝詞が奏上される。この後、一同は隊列を組んで大社へ向う。ひもろぎは、大社教の施設である神楽殿に入り、ここで祭典が行われる。そして次に大社境内の東西にある19社へ渡る。ここで神々が休まれることになっている。
これより神の滞在期間である「お忌み」となる。神在の期間中、本殿前にて3度(11、15、17日)の神在祭祭典が行われる。
神等去(からさで)祭は17日の夕方に行われる。東西の19社にあったひもろぎが、拝殿に移動される。拝殿の祭壇に2本のひもろぎ、龍蛇神、餅が供えられ、その前にて祝詞が奏上される。
その後も神々は出雲国内に滞在されるが、26日の第2神等去祭で御国に帰っていかれる。

〜右の「神在月まめ知識」から引用。




WR2101出雲の神在月

















神在月まめ知識
佐太神社
(11-16、20-25日)

佐太神社の神在祭は他社と異なり春と秋の2回行われる。秋の神在祭は11月20〜25日で、30日には止神送(しわがみおくり)神事がある。春は神在祭裏月祭と呼ばれ5月20〜25日、31日が止神送。
秋の神在祭は11月20日夜の神迎神事から始まる。
本殿周囲には注連縄(しめなわ)が張り巡らされている。神職が南口から入り、礼拝後、傍らで佐太独特の礼拝方法である「四方拝」を行う。そして一旦外に出て、直会殿にて秘儀。再び注連縄内にひもろぎを捧げ持って入り、殿内に安置する。以後25日の神等去出神事まで一切誰も注連縄内に入ることはできない。
25日夜に神等去出神事が行われる。祝(はふり)が包丁で青木柴の縄を切ることから始まり、神迎えの際と同様の儀式が行われる。中殿前からひもろぎが下げられ、祈祷所内で秘儀。その後ひもろぎを捧持して神職が出場し、行列を組んで神送りの場となる「神目山」へ向う。
神目山にて神送りの儀式を終え、神社に帰ると「お忌み」の終了となる。30日にも、帰り残った神々をお返しするために止神送神事として同じ神送りを行う。
〜右の「神在月まめ知識」から引用。
神在月まめ知識
朝山神社
出雲市朝山町
(旧暦10月1-10日)
朝山神社は宇比多伎(ういたき)山の頂上付近に鎮座する「出雲国風土記」「延喜式」所載の神社である。旧10月1日、神職は氏子総代とともに鳥居下にヒモロギを立て、これに神々を迎える。
ヒモロギは総代らによって絹垣に覆われて、境内の朝山十九社に安置される。この社は出雲大社の十九社にならって20年程前に造営されたものである。御忌の期間中、神社では歌舞音曲をつつしむ。
10日、神迎え同様に鳥居下にヒモロギが立てられ、神送りが行われる。朝山神社のあと、神々は出雲大社に向かうと伝承されている。神職によると、当社では出雲大社同様、様々な「神議り」が行われているという。
〜右の「神在月まめ知識」から引用。
神在月まめ知識

玄松子
出雲の古代を歩く

万九千社
簸川郡斐川町立虫(たちむし)神社境内
(17-26日)

11月17日から26日までを神在りもしくはお忌みと称し、まず神迎えにあたる龍神祭を17日早朝、宮司が1人、社近くの斐伊川の水辺で秘儀として行い、ひもろぎに宿る神々を社へと遷し祭る。この日をお忌み入りと呼び、以後社周辺での奏楽、歌舞、音曲の一切を禁止し、斎場の静粛と静浄を保ちつつ神送りにあたる26日の神等去出祭を迎える。25日には前夜祭があるが、かっては複数の神職が社殿に寝泊まりするお篭りもあったという。古くは東西に仰ぎ見る「出雲国風土記」の神名火山(現仏教山)の麓で火を焚いてお送りしたとの記録や伝承もある。
〜右の「神在月まめ知識」から引用。
神在月まめ知識
出雲に八百万神集まる
玄松子
神奈備

神魂(かもす)神社
松江市大庭町
(11日)

16世紀初頭までは出雲国造が当社の神主であり、明治以前までは国造火継ぎ神事や新嘗祭は当社で行われていた。
神在祭は旧暦10月11日(現在11月11日)夜に神迎え、18日が神等去出祭である。11日夜、境内神社稲荷社に合祀の高天神社で神々を迎え、引き続き12日早朝、ひもろぎでもって本殿内殿に迎える。かってこの社はこの東北方4町余の、それこそ茶臼山(かっての神名樋山)を真向かいに仰ぐ地に建てられていたことから、神在祭と神名火(樋)山に何か関係があるのではという説もある。
〜右の「神在月まめ知識」から引用。
神在月まめ知識
売豆紀(あずき)神社
意宇郡松江
松江市中心街の南端に鎮座する「出雲国風土記」「延喜式」所載の神社である。当社の神在祭は12月3日の新嘗祭の前に祝詞を読むことのみが行われている。佐太神社参集後、直会の一つとして当社に神々が参集すると意識されている。
一説によると、当社の神在祭は神魂神社から佐太神社への巡幸のルートに当たっていたのではないかとも言われている。
〜右の「神在月まめ知識」から引用。
神在月まめ知識
古代の出雲を歩く
玄松子


朝酌下(あさくみしも)社
松江市朝酌下町
(25日)
多賀神社(朝酌下社)は大橋川沿いにある。「出雲国風土記」所載の神社でもある。
25日、佐太神社より当社に直会のために神々が参集すると伝承されている。この直会の邪魔をしないよう、境内に人の出入りができないように、参道2ケ所に注連縄を張る。26日、早朝、この注連縄を外すことで多賀神社の神在祭は終了する。
特に神社での神事はなく、神々は自然に当社に集まり、自然に去っていくと考えられている。神職はこの行事を佐太神社の後の神々の直会と意識している。地域の人々も直会の邪魔をしないように、神社への出入りはせず、両日は静かにしていたという。
当社の本来的な参集の場所は神社ではなく、神社横(境内地ではあるが)の魚見塚古墳(前方後円墳)である。ここで神々はエビスの釣を見学するともいわれている。神職は25日昼頃、この古墳に幣を立て、清める。
〜右の「神在月まめ知識」から引用。
神在月まめ知識
古代の出雲を歩く
多賀神社神在祭

日御碕神社
日御碕神社
島根半島の最西端に鎮座する「出雲国風土記」「延喜式」所載の神社である。当社では旧暦10月11日に神迎祭、14日に龍神祭、17日に神等去出祭を行っている。祭は社殿に神々を迎えるというより、出雲に神々が参集したことを祭神に報告するという形で行われている。しかし、近世においては、当社にも神々が参集することが積極的に説かれていた。
龍神祭は龍蛇が奉納されたことを祭神に報告する祭である。近年は護岸工事による潮流の影響で龍蛇が上がることはほとんどなくなっている。従って祭は龍蛇が奉納されたとの仮定のもとで行われる。
〜右の「神在月まめ知識」から引用。
神在月まめ知識
神原神社
大原郡加茂町
(10-26日)
斐伊川支流、赤川の下流左岸に鎮座する「出雲国風土記」「延喜式」所載の神社である。
当社の神在祭は現在では旧暦10月26日(現在11月26日)に宮司が祝詞を唱えるのみである。しかし終戦直後まではカラサデもあったという。宝永4年(1707)の縁起には「10月10日に神々は神在代宝原(神原)に参集し諸事の相談を行う。11月より17日は出雲大社に巡幸し諸事を決定する。これを上の斎(いみ)という。この斎の間は家を建てたりせず諸事慎重に過ごす。その後18日より神々は加多智社にて休息する。この間は忌みが解かれる。そして21日に佐太神社に巡幸し、再び斎の状態に入る。神々は26日に再び神原に戻った後全国に帰られる。これを神去風(カラサデ)という」とある。
〜右の「神在月まめ知識」から引用。
神在月まめ知識
古代の出雲を歩く
信州考古学探検隊


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