文献に掲載されている由緒書き
『全国神社名鑑』(史学センター)に掲載されている由緒書き
記載ありません。
「神武天皇御東遷聖跡考」勝井純著、昭和12年12月5日発行、P330より
以下は伊藤邦太郎氏の紹介文書からの抜粋です
・・今の那智村の隣村同郡色川村に、高塚山と称する山があって、その北の麓に大栗栖(おおぐるす)、小栗栖(こぐるす)と称する小部落があり、その北の麓に上古から事代主命を祭神とする神社があります。そして、その高塚山の南、同郡下里町の八咫鏡野には、上古から建角見命を祀ってある八咫烏神社があるのであります。熊野巡覧記に
「八尺鏡野邑に頭八咫烏、神武天皇の軍を導く時此所にて暫休息す、仍ち名くと有り」
と見えている伝説地すなわち之であります。
神体は八咫の鏡であったそうですが、その後盗難に遇い、
「朝日秀す夕日秀す場所に埋めてあれば、これを発見せば此の地繁栄すべし」
と神託があったと伝承されていますが未発見のまま数百年を経過し、明治25年頃京都で新鏡を鋳させてこれを神体として社殿に奉安したそうです。
<途中略>
この社地は古来この地方において、神武天皇御東遷のさい建角見命のいた所で、八咫烏の名称は、八咫鏡野の地名に因んで号けられたものであると伝承しているのであります。これを記、紀の文献に徴しましても、色川村高塚山の事代主命神社、大栗栖(おおぐるす)、小栗栖(こぐるす)などの地名より推考いたしましても此地は建角見命の発祥の地に相違ないと思われます。
<途中略>
奈良県宇陀郡伊奈佐村の頭八咫神社の鎮座地を高塚と称え、此の社を「オトゴロス」と称えたのも、あるいは建角見命の発祥の地であり、始めて神武天皇に従って皇軍を導いた緑深高塚山付近の地名をそのまま踏襲したものではあるまいかと考察されます。八尺鏡野の八咫烏神社でイシコリドメ命が八咫鏡を完成
下記は、神武天皇大和進入経路からの引用です。
八尺鏡野本来の地名は八咫鏡野である。
「天照大神がイシコリドメノ命に鏡を作るようにと下界に赴かせ、着いたのが八咫鏡野であった。命は懸命に鏡を打ち、完成したが、かすかな傷のために作り直しを命じられ、新しく完璧な鏡を作り、天照大神に献上した。その鏡が伊勢神宮の御神体の八咫鏡となった。傷のある鏡は、八咫鏡野の八咫烏神社に残されたが、あるときに盗まれて行方不明になった」
八咫鏡野に八咫烏神社が存在している。
「神武天皇を導くとき、此処にて暫く休息す。」
と言い伝えられている。
(※)八咫鏡野の八咫烏神社は、下記で引用している下里神社によるとこちらの下里神社に合祀されているらしい。
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