舂米神社(つくよね)【1】トップページ|鳥取県

マピオン地図
鳥取県八頭郡若桜町大字渕見
 ⇒ 公式サイトはこちらです。

舂米神社(つくよね)トップページ

舂米神社(つくよね)〜須賀の宮神宮(氷ノ山)から遷座

 山頂に須賀の宮権現があった。

 この神社は明治3年周辺3か村で下ろすことになった。

 兵庫県養父市鵜縄には、志賀峰神社、
 兵庫県養父市大屋町横行には、四ケ峰神社(しかのみねじんじゃ)
 鳥取県八頭郡若桜(わかさ)町大字舂米(つくよね)では、舂米神社(つくよね)となった。
 但馬側でも須賀の山に由来する神社名が使われている。

拝 殿

準備中

ご祭神

天照神

本 殿

天照大神、御製和歌

 『須賀山雑記 (1973年)』(山根達治著 今井書店刊)に所収されている森岡明彦氏の『舂米神社 その伝説記』(P173)には、この歌は、
「天照大神が大群を率いてこの地に至った時、朝陽に輝く樹氷を見て、よんだといわれる」
 と紹介されています。

     あしひきのやまへはゆかじ

      しらかしの

        すえもたははに

           ゆきのふれしば

八上神秘の白兎と天照大神伝承―もう一つの因幡の白兎神話』(大江幸久著、星雲社刊)P90より引用

 氷ノ山(ひょうのせん)と赤倉山

 古くは須賀の山と呼ばれ、主に因幡側の人の信仰の山であったようだ。
 因幡側では北隣の赤倉山氷の山(ひょうのせん)と呼んでいたが、但馬側の人は須賀の山標の山(ひょうのせん)豹の山(ひょうのせん)氷の山(ひょうのせん)などとと呼んでいた。
 大正初期陸軍省測測量部が地形図を作成するとき、但馬側の呼び名「氷の山」と記入した。因幡側では不満があっても軍にもの申すことができなかった。
 第二次大戦後、因幡側から異議がでて昭和51年「須賀の山」と訂正されたが、やがて再びこれまで定着していた氷ノ山(ひょうのせん)に戻された。
 山頂に須賀の宮権現があった。この神社は明治3年周辺3か村で下ろすことになった。鵜縄村(関宮町)は志賀峰神社、横行村(大屋町)は四ヶ峰神社、舂米(つくよね)村(若桜町)では舂米神社となった。但馬側でも須賀の山に由来する神社名が使われている。

 舂米(つくよね)神社に回る。
 ここに面白い縁起が書いてある。
 須賀の山山頂では管理が大変なので、周辺14ヶ村が祭神をどの村に降ろすかと争った。ある古老が「翌朝早く登ったものが下遷する」といったので、これに決まった。舂米村のものは一計を案じ、翌朝を待たず下山途中で引き返し、ご神体を奉持し下遷してしまった。この縁起でも、山頂にあった須賀の宮権現の総社は舂米神社ということになる。

 舂米(つくよね)は米を搗くことだろうが、こんな珍しい字が使われているので何故か思えば、次のような話が伝わる。

 弘法大師がこの山麓を訪れたとき、村人が米を搗いていたが米を惜しみ、稗をつまんで渡した。大師はこれを怒り、山を超えながら稗を捨ててしまった。ここから「ヒエの山」となった。

 この話では、あの弘法大師が怒ったところが面白い。それほど珍しい地名ということだろうか。

 兵庫県の山 より引用です

【氷ノ山 ひょうのせん】(抜粋)〜「兵庫県大百科事典」(神戸新聞出版センター)

 明治39年(1906)発行の高頭式編『日本山嶽誌』によると最高峰は菅[すが]ノ山[せん](須賀ノ山)に、氷ノ山越の峠の北のピーク赤倉の頭[かしら](1,332m)が氷ノ山となっている。
 これは鳥取県側の呼び名で兵庫県側では「ひょうのやま」(豹[ひょう]の山[やま]・標[ひょう]の山[やま])と呼称していた。その昔、山頂に須賀の宮権現がまつられ、出雲文化の影響で一歩進んでいた因幡の住人の信仰が篤かった。今も山頂に群生するスズタケの陰に礎石が残っているという。
 山頂直下にみたらしの池(みそぎ場)や灯籠岩の遺跡がある。近代スキー登山の対象になってからは、その当時の大正初年発行の陸軍陸地測量部の地形図と兵庫側の呼び名にしたがって、山の仲間は「ひょうのやま」、または「ひょうのせん」と呼び、ついにそれが定着するようになった。
 ところが第2次大戦後になり鳥取県側から苦情が出たため、新しい地図では須賀ノ山に訂正されることになったが、一般的に定着している「ひょうのやま」、または「ひょうのせん」おされて、国土地理院においては、54年度から発行の地図で最高峰を「氷ノ山」に、1,332mのやまは「赤倉山」と訂正することになった。またNHKではその呼称を「ひょうのせん」に統一した。

多田 繁次(ただしげじ)

 電脳徘徊 より引用