長等神社(ながら)【3】文献に掲載されている由緒書き|滋賀県

マピオン地図
滋賀県大津市三井寺町4-1( マピオンによる広域地図
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文献に掲載されている由緒書き

『全国神社名鑑』(史学センター)に掲載されている由緒書き

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滋賀県神社庁のホームページの長等神社のページより

滋賀県神社庁のホームページからの引用

 天智天皇御世、都の鎮護として長等山岩倉の霊地に須佐之御男大神を崇祀する。
 天智天皇八年五月五日、宇治の山科より還行の時弓と矢を奉納された。皇子大友与多王、五月五日を祭礼日と定め給ひ、今にこの日を例祭日としている。
 清和天皇貞観二年、園城寺の開祖智証大師が日吉大神を勧請合祀され、園城寺の守護神とした。清和天皇の時初めて官幣を受け、社殿修復等本宮日吉大社に準じて上奏を経る事とせられた。
 後冷泉天皇の天喜二年に明尊大僧正が山上の社を現在の山麓の勧請し新宮社と称し、その所を神出と名ずけられた。
 白河天皇永保元年、官符を下して大津の住人をして日吉祭を新宮社で勤行せしめ、寺門の衆徒もこの祭に加勢した。爾来、当社は日吉本宮と対比し十二の廻廊もあり湖南の大社として隆盛を極めたが、山門・寺門の衆徒の闘争により、当社も度々の兵火に罹る。
 鎌倉幕府が宇津宮蓮生に命じて、本殿・拝殿・楼門等を再興したが再び灰燼となる。
 後村上天皇興国元年、足利尊氏社殿を再興し、霊元天皇寛文十一年社殿を大修理す。
 爾後、永保天明寛政の年代に亘って社殿を修理する。
 東山天皇元禄四年極月、聖護院宮道尊法親王、山王御神体一体御寄進あり。
 本殿の建造物に関しては棟札四枚が保存され、その最古の棟札は明応四年次で文化九年天保七年がある。本殿内に六個の釣燈籠が下げられているが、その一つに次の銘がある。万治元年辛丑年奉掛御宝物日本第一大霊権現南無新宮。尚当社に木像薬師如来座像と木像如竟輪観音坐像がある。この二体の像の底にそれぞれ、山王大明神本地佛、山王新宮本地佛の銘記がある。現在の薬師如来像は、鎌倉末期、如意輪観音像は室町初期の作と鑑定されている。
 明治九年村社、明治十五年長等神社と復称す。明治十六年郷社。明治三十四年一月県社。昭和五十七年四月、長等神社創立千三百年式年記念大祭を斎行す。「長等のあゆみ」刊行す。