早吸日女神社
 大分県大分市大字佐賀関3329

 ホツマ伝えでは速吸姫は赤土命の子で、スサノオ命が結婚を申し込んだ姫神であった。

 八岐大蛇にかみ殺されるという憂き目にあっている。

 持子と早子は、天照神を亡きものにしようとした陰謀が露見し瀬織津姫から筑紫の宇佐の赤土命の宮に蟄居を命じられる・・・


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神代の昔、伊邪那伎神が潮中に潜り、汚穢を灌ぎ、
高門巌に昇って、田刈穂に宮殿を造ったのが当社の起源。
「田刈穂」とは一名「高風」といい、現在の古宮の地。
当社の西1Kmほどの所にあり、元の鎮座地であるという。

 由緒
 当社は人皇初代神武天皇御東遷の途路、速吸の瀬戸に於いて
海女黒砂真砂の二神が海底から取り上げて奉献した神剣を御神体
として古宮の地に天皇御自から祓戸の神(当社祭神)を奉斎し
建国の大請願をたてられたのが、創祀である大宝元年(七〇一年)
神慮によって現在の社地に遷座。
 延長五年(九二七年)延喜式を制定するに当り式内社に列せられ
爾来諸災消除開運の神として皇室を始め諸大名の崇敬厚く遠近の
諸人も伊勢神宮になぞえ関大神宮又御関様(関権現)とも称し
伊勢神宮に参詣することを参宮当社に参詣することを半参宮と
となえ、多くの信仰をあつめて今日に及ぶ。
 慶長五年(一、六〇〇年)兵火によって社殿宝物一切を焼失した
が慶長七年加藤清正侯当地を領するに当り社殿を再建後、
藩主細川侯の再建修築に係るもの多数現存 昭和四十八年九月
社殿改修並に社務所、参集殿新築工事竣工、更に神社の荘厳さを加える。
−境内由緒−