生国魂神社(生玉神社)〔いくくにたま〕トップページ
生国魂神社(生玉神社)が祀られていた洞村は、かつて英雄の村だった
「洞村(ほらむら)」とは、それが縁故で現代まで「洞村(ほらむら)」と継承されつづけてきた極めて由緒正しい地名である。
神武天皇と殉死者を弔うために、「洞村(ほらむら)」に残った方たちは、神武天皇九州滞在時からの腹心であり、さらに東征に随行し苦労辛酸を舐めながら時代を建設されてこられた実に英雄的なお働きをされてこられた方たちだった。
こういうご苦労があって、神の代から人の代へ移り変わりが成し遂げられたのだった。
2000有余年、時の流れの皮肉か、「洞村(ほらむら)」の英雄性は忘れ去られ、逆に虐げられる試練を経ることになったが、そういう試練があったからこそ神代の血が保たれることになったことを思うと、「洞村(ほらむら)」の末裔のこれからの活躍に期待をもつものです。
これから人類が体験していく人の代から神の代への移行に当たって、神武天皇のときと同じく「洞村(ほらむら)」の末裔の方が英雄的お働きができるようにただただ祈ります。
私は、「洞村(ほらむら)」の方たちが長きにわたって守ってこられた生玉神社跡に立てることを望みます。
平成20(2008)年8月16日(土曜日)・17日(日曜日)、成田家の所縁を追って神八井耳命の八井神社(八幡神社)の参拝をしたとき、当神社に立ち寄らさせていただきました。「月の光」成田 亨(なりたとおる)
(※)『秀真伝(ほつまつたゑ)』(八幡書店、下巻P291)に記述される「洞(ほら)」という名称と現代の地名として伝えられている「洞村(ほらむら)」は明かに関連をもっていると思う。「洞村(ほらむら)」は、大正時代に入って間もない頃、国の主導による本格的な神武陵一帯の整備が始まると、その拡張の必要などにともなって、大正6年(1917年)に付近の平野部に移転した。
ホームページの写真は、移転後の場所に建立された社(やしろ)です。
本殿
ご祭神
神武天皇(生国魂神、咲国魂神)
(※)この社の祭礼は、9月12日におこなわれる。この日は『日本書紀』に、神武天皇を畝傍山の東北陵に葬ったと記している日にあたる。
畝傍山周辺図
神武天皇の兄弟が祀られている神社(御陵)
古事記 | 日本書紀 | 祀られている神社(御陵) | |
1 | 五瀬(いつせ) |
彦五瀬 (ひこいつせ) |
●紀元前663年5月8日(?)、五瀬命が崩御した地と伝えられる 男神社(おの) 大阪府泉南市男里3丁目16-1 ●ここから上陸か? 水門吹上神社(みなとふきあげ) 和歌山県和歌山市小野町2-1 ●この地に埋葬する 竃山神社(かまやま) 和歌山県和歌山市和田438 |
2 | 稲氷(いなひ) | 稲飯(いなひ) |
室古神社(むろこ) 三重県熊野市二木島町 紀元前663年10月、ここに漂着した稲飯命を室古神社(むろこ)に祀ったとされる。 |
3 | 御毛沼(みけぬ) |
三毛入野 (みけいりの) |
阿古師神社(あこし)
三重県熊野市甫母町 紀元前663年10月、三毛入野命の遺骸は見つからなかったが、阿古師神社(あこし)に祀ったとされる。 |
4 |
若御毛沼 豊御毛沼 倭伊波礼毗古 (かむやまといわれひこ) |
神日本磐余彦 (かむやまといわれひこ) |
●神武天皇陵〜畝傍山東北陵 (うねびやまのうしとらのみささぎ)という 奈良県橿原市 ●生国魂神社(生玉神社) 奈良県橿原市大久保町31-15 紀元前585年(神武76年)3月10日に亡くなり、紀元前584年(綏靖元年)9月12日に祀られる。 |
生玉神社(いくたま)は、神武天皇を祀り生国魂神・咲国魂神とする
下記は、第225回活動記録 神武天皇陵の謎からの引用です
菊池山哉(さんさい:大正-昭和の郷土史家)はその著書のなかで、洞村の区長宅で多くの老人たちから聞いた洞村内部の話を次のように伝えている。-
洞村は神武天皇陵拡張のため平野へ移転し、今は街路整然といしている。もとは畝傍山の東北の尾の上であり、『古事記』『日本書紀』は神武天皇陵と伝えているところと一致する。
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神社を生玉神社(いくたま)という。祭神は神武天皇とのことだが確かではない。
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この部落は、神武天皇陵の守戸であると伝承している。神武天皇陵は、畝傍山の東北の尾の上の平らなところで、丸山宮址のところとも、生玉神社(いくたま)のところとも伝えられている。
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旧家は、御陵と伝えられているところの下で、『ひぢり垣内(かいと)』ととなえ井上、辻本、楠原、吉岡などが本家。ともに日向からおともしてきた直系の家来で、そのため墓守になったと伝えている。
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丸山宮址と呼んでいるが、宮があったとは聞いていない。径25間の平地で、円形をなし、その中心が、径3間ぐらい、こんもりと高く、昔は松の木が茂っており、その上を通ると音がして、他のところとは変わっていた。
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その境内に、7つの白橿(しろかしわ)の大木があった。最後のものは周囲すでに皮ばかりで、そのなかが、6尺からの空洞であった。皮ばかりでも『しめ縄』がかけられていた。
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白橿村(しろかしわむら)というのは、御陵に白檮の大木が7本もあったからで、神代からのものと伝えられていた。
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明治の初年、神武天皇陵認定のときに、この地の人が賤民であったばかりに、神武戸と称する部落の人の作り田を、強制没収でとりあげてしまった。それが、今の御陵となっている地である。神武戸とは、神武天皇陵の戸、入口の意味である。
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今の御陵は真実の御陵でないといったら、全村千人のものが、放りだされて路頭に迷うかもしれないので、頭(かしら)がかたく箝口令をしいていて、絶対に口外しなかった。今の御陵は真実の御陵と方向があべこべである。
ここまでが、第225回活動記録 神武天皇陵の謎からの引用です
さらに以下が政治と学問のあいだの絡みについての、第226回活動記録 神武天皇陵の謎その2からの引用です
■政治と学問のあいだ谷森善臣は、同じ宇都宮藩顧問団の津久井清影、北浦定政の丸山説を知っていたであろう。また、谷森善臣は神武天皇陵の問題以外は穏当な判断をしている。にもかかわらず神武天皇陵についてはそうとう強引な判断をしたように見える。なぜだろう。
このころの事情について、国立歴史民族博物館の春成秀爾氏は次のように述べる。
1863年(文久3年)2月に神武陵に決定されたのは、むしろ本命とみられていた丸山ではなく、ミサンザイであった。
その理由こそ時の政治情勢下における洞村との関係にほかならなかった。洞村は1854年当時、120戸からなる被差別部落であった。もともと『神武陵』復興の動き自体尊皇攘夷運動の激化する過程で大きくなって行ったもので、文久の修築にかかる頃は、皇女和宮の降嫁に象徴されるように公武合体論が盛んな時であって幕府は朝廷との友好関係を強化することに自らの延命策を見出し、天皇陵の指定と修復の事業を本気で考慮していたのであった。
幕府は、孝明天皇が大和に行幸する計画を知るや、天皇陵の決定・修復事業を実施する決意を固め、戸田越前守から出された建白書をうけいれ、行幸に先立って山陵奉行を急遽設置し、宇都宮藩家老戸田忠至を任命し、谷森善臣をその相談役にしたのであった。ところが、そのわずか1ヶ月のちに、攘夷断行の報告のために孝明天皇の『神武陵』参拝が決定されたために、幕府はいっそう追いつめられることになったのである。
「『神武陵』はいつつくられたか」(『考古学研究』84、1975年)
つまり、本命と見られていた丸山説を採らずに、ミサンザイに決定した裏には次のような事情があったのである。
- 丸山が「神武天皇陵」に決定したならば、洞村の人たちは、立ちのきを命ぜられることが必至であると予想された。洞村の人たちにとっては、死活問題であった。
- 幕府がわは、時間にさしせまっており、洞村の人たちを、強制移転させる時間的余裕がなかった。
大和三山周辺図
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