源義経の胴塚(判官森)【5】記録に残しておきたいメモ書き|宮城県

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宮城県栗原市栗駒松倉
 ⇒ 公式サイトはこちらです。

記録に残しておきたいメモ書き

源義経という名を捨てた場所

 この地に源義経の墓碑があるとは思わなかった。
 墓は京都の鞍馬寺にあるものとばかり思っていた。

 義経という名前を捨てた場所なので、義経の墓所としてふさわしい。

記録に残しておきたいメモ書き

 こちらのサイトからの引用です→判官森(はんがんもり)

 むかし、宮城県栗原市沼倉に杉目太郎(すぎのめたろう)という若者がいました。
 太郎は、源義経の家来になり妻子をつれて平泉の義経の元に参じていました。年齢も姿も義経にそっくりの太郎はよく義経に間違えられていたそうです。
 藤原泰衡の軍勢に衣川の館を攻められ、まさに館が落ちようとしている時、杉目太郎は義経の身代わりをかって出たそうです。
 義経は着ていた鎧兜を太郎に渡し、農民の格好をして逃れたと云われています。
 身代わりになった太郎は館の焼失で命を落とし、亡骸は検分の為に鎌倉に送られることになりました。
 首は鎌倉に送られたそうですが、残った胴体は宮城県栗原市沼倉沼倉に運ばれ手厚く葬られたそうです。

(※)源義経の首を祀るのが神奈川県藤沢市の白旗神社です。

 太郎の墓は小高い森の中にあり、その森を『判官森』と呼ぶようになったそうです。
 この伝説を知った時は半信半疑で、まさか栗駒町に源義経の墓があるとは思いませんでした。
 その後に本やネットで調べてみると、義経生存説が当時から囁かれ、北に逃れる時に立寄った義経伝説が岩手県の海岸部に数多く存在する事がわかりました。
 義経が平泉を逃れ、三陸沿岸の山道を通り北海道に渡ったと云われる『義経北行伝説』です。
 また、杉目太郎行信は実在した人物で、義経の軍学の師である奥州杉妻城(福島市)の城主「佐藤基治」の子供だそうです。
 以前より義経の影武者をしていたとも云われていました。
 宮城県金成町には太郎の墓があり、義経の身代わりになった事が書かれているそうです。

(※)宮城県栗原市金成津久毛平形松迫

杉目太郎行信

 こちらのサイトからの引用です→杉目太郎行信

源祖義経神霊身替杉目太郎行信碑
古塔泰衡霊場墓 文治五年
西塔弁慶衆徒霊 四月十七日
 杉目太郎行信をまつる義経身替りの墓(碑)が宮城県栗原市金成町の松山街道・津久毛橋近く「江浦藻山(つくもざん)信楽寺(しがらくじ)」の跡にたっている。
 このあたりは藤原の武将、沼倉小次郎高次の領地で首の無い杉目太郎行信遺体が沼倉小次郎高次によりここに運ばれ、葬られたと言う伝承がある。